基本読書

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善良な始末屋のジレンマ──『その雪と血を』

その雪と血を(ハヤカワ・ミステリ) (ハヤカワ・ミステリ 1912)

その雪と血を(ハヤカワ・ミステリ) (ハヤカワ・ミステリ 1912)

わずか175ページほどだが、読者がすぐに惚れてしまうであろう魅力的な主人公、洗練された無駄のないプロット/描写、幾度も起こる驚きに引っ張られ、読了時に90分ぐらいのスッキリとした映画を観終えた後のような心地よい満足感の残る作品だ。

あらすじとか

舞台は1977年の12月のオスロ(ノルウェーの首都)。始末屋として活動している男オーラヴ・ヨハンセンは常日頃殺しを依頼してくるダニエル・ホフマンの妻コリナ・ホフマンを殺せと命じられるが、惚れっぽい彼はその女性のことを一目みた瞬間にすっかり気に入ってしまい──という形で、殺しを依頼されちゃったけどなんか殺せないなーどうにかできないかなーと「ジレンマ」に陥っていくのが導入部である。

幾つもとおもしろいところはあるが、まずこの始末屋のキャラクタが抜群に良い。冒頭から俺にはできないことが4つある、といって「逃走者の運転(目立たずに運転できないから)」「強盗(強盗被害者はその後精神に問題を抱えるというから)」「ドラッグがらみ(とにかく無理)」「売春(女がどんな方法で金を稼ごうがかまわないが、すぐに女に惚れてしまうから商売としてみれなくなる)」を、それぞれあげてみせる。

ずっと裏社会の人間として、法律に違反するようなことばっかりやってきたわけであるが、根が善良なのかなかなかにうまくいかないのだ。始末屋を始めてからも、殺した相手の、4人の子供を抱えた未亡人に自身の全財産を渡してしまったりしている。

「あなたは善良な心を持ってるんだと思う」
「善良な心なんて近頃は安いものさ」
「いいえ、そんなことない。めったにないものよ。そしてつねに求められてる。あなたはめったにいない人なのよ、オーラヴ」
「どうかな」

善良であれば始末屋もできないだろうと思うが、ターゲットは殺されて当然の連中ばかりだ。──これまでは少なくともそうだった。というわけで、善良な始末屋は殺されて当然の連中ではない、つまり彼には殺すことのできない女コリナ・ホフマンを目の当たりにすることで、依頼主のボスとは対立することになる。ボスは都市を二分する麻薬業者で、裏切りは許されない。オーラヴはボスを消し、行動の自由を得るために、コリナをかくまいボスのライバル業者へとボス抹殺の手助けを要請する。

オーラヴはいかにしてダニエルを殺すのか? 奇策を練り、信頼できない仲間との共同戦線を張り、作戦準備をしていくが、そんな中裏切りに裏切られ、お互いがお互いを騙しあい、と短いページ数の中でコロコロと情勢が変わっていくのがたまらない。何よりそうした状況の中でもがき続けるオーラヴの在り方そのものに強く惹かれることになる。「なにしろおれは生命や意味を創造する人間ではなく、ものごとをぶち壊しにするタイプの人間なのだから。」とオーラヴは述懐する。

それは彼の経歴からいっても間違いではない。読書が好きだが識字障害で、善良ながらも壊すしか能がない、人を愛すが近寄れない、そんな矛盾した性質を一身に抱え込み、割り切れもしないままもがき苦しみながらも前に進んでいく彼の姿は、凄惨ながらも圧倒的に美しく心に残る。特にすべてが噛み合って結実するラストの場面は、オーラヴ自身の人生を追体験し、引き裂かれそうになるぐらい凄い。

おわりに

薄い本(同人誌にあらず、180ページ前後の本)の内容がぎゅっと詰まっている本が好きなのだが、最近めっきり少なくなってしまっているのもあって(ポケミスだと昨年『ザ・ドロップ』もあったけど)そういう意味でも本書は嬉しかった。翻訳に限らず(小説にも限りらず)もっと薄い本を出してくれーー、ぼくの中の理想の文庫って、ヘッセの『シッダールタ』ぐらいの薄さと密度なんだよなあ(無関係な内容で締め)。