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『ユリシーズ』から『これはペンです』まで──『実験する小説たち: 物語るとは別の仕方で』

実験する小説たち: 物語るとは別の仕方で

実験する小説たち: 物語るとは別の仕方で

この世には実験小説と呼ばれるたぐいの作品がある。実験=experimental というぐらいだから、要するに普通の小説ではない。そもそも"普通の小説"を定義するのも難しいが、まあ、登場人物がいて、ページをめくると物語が前に進んで、読める言葉で書かれていく、あたりから外れた工夫が凝らされた小説といえる。

たとえば最近再刊行もされたコルタサルの『石蹴り遊び』。この本の冒頭には読み方を指示する「指定票」がある。なぜそんなものが必要なのかというと、『石蹴り遊び』は「向こう側から」と題された一部、「こちら側から」と題された第二部、「その他もろもろの側から」と題された第三部から成り立っており、これを順番で読んでいくような構成にはなっていないのだ。指定票によると、第一の読み方は、第一部と第二部を順当に読んでいって第三部は読まない。第二の読み方は指定された順番で読むように言われ、第一章を読む前に第七三章を読まなくてはならない。

頭から最後まで読ませてくれりゃあいいのに、何故そんな面倒な読み方をしなければならないのか? と思うが、それを考えることまで含めて実験小説のおもしろさだといえるだろう(たとえばスゴ本Dainさんの記事を読むとそれがよくわかる)。
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実験する小説たちの紹介

というところで本書『実験する小説たち』の話に戻るが、これは『石蹴り遊び』のような実験小説をまとめ、分類し、必要に応じて作品からの引用をひっぱってきて"どのような実験を行っているのか"を具体的に紹介してくれる、いわば実験小説ガイドブックである。「実験小説」の定義からはじまって、現代文学の起点であるジョイス『ユリシーズ』、詩と注釈で小説に仕立て上げたナボコフ『青白い炎』などなど主に実験の種類から代表的な一冊を取り上げて詳細な解説を加えてくれるのだ。

各章の最後には類似する手法を用いた実験小説の簡単な紹介も載っており、当然ながら変な話ばかりで、これがまたそそる。実験小説大好きで読み漁ってます! という人でもない限り(そんな人あんまりいなそうだ)何らかの発見のある一冊だろう。

個人的におもしろそうだなと思った本。

僕が読んだことないのでおもしろそうだなと思ったのは、一人の男がエスカレーターに乗ってから降りるまでの数十秒間に考えたことが200ページの小説になったベイカー『中二階』。主人公が死んだところから始まる、時間が逆さまに展開し会話が「ウユ・ア・ウハ?」(ハウアーユーの逆読み)などと記述されるエイミスの『時の矢』。無について書かれた小説、マークソン『これは小説ではない』(小説だろ)あたりか。

中心で取り上げられるのがほとんど翻訳小説なのはちと寂しいが(サブガイドで筒井康隆作品などが取り上げられるけれど)、日本人作家では疑似小説執筆プログラムとして円城塔『これはペンです』が取り上げられている。円城塔さんはこの作品に関わらず、実験と小説的なおもしろさが相乗効果を発揮する稀有な傑作を無数に書いているので個人的にもオススメである(『エピローグ』『プロローグ』など)。

日本でも小説ならぬ大説として奇想天外な小説を連発した清涼院流水さんなど実験小説の書き手は大勢いるから、もし第二弾があるならば日本作家限定で書いてもらいたい気もする。とはいえ筒井康隆さんや清涼院流水さんのやったことを取り上げ始めたら一人一冊費やさないと足りないぐらいだろうが。

"新しさ"と"受け入れられる範囲"の妥協点

"新しいこと"をやろうとするのは小説を商品として捉えた場合でも当たり前のことだが、かといって商業作品として売ろうとする以上は"ただ新しいだけ"では価値がない。極端な話、「あああ」と十六万文字書かれたものを小説として売るのは新しいかもしれないが、そんなもの誰も読もうとは思わないだろう。

つまり実験小説とはただ"実験"すればいいだけではなく、ある程度以上は読者に受け入れてもらえるギリギリの逸脱を狙わなければならない。コントロール能力を必要とされるものであるといえる(趣味として書いていれば誰も欲しないものを書けるが)。実験小説ガイドといえる本書だが、各作家らのそうしたギリギリの"攻め"を分析した一冊として読んでもなかなかに楽しい。斬新ではあるけれど、評価の伴わない実験小説だって、それこそいくらでもあるわけだし。