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平均的な人間はどこにもいない『平均思考は捨てなさい──出る杭を伸ばす個の科学』

平均思考は捨てなさい

平均思考は捨てなさい

こういってはなんだが『平均思考は捨てなさい』とは、ノリ切れないビジネス書のような書名だ。そのため気が乗らずに読み始めたのだが──これがめっちゃおもしろいし、平均による評価で満ちたこの社会において誰もが知る価値のある一冊である。

内容を簡単にまとめてしまうと、我々の社会では現在のところ、テストの評価/成績を平均の上か下かで優劣を判断したり、子供の成長が平均より遅れている(ハイハイをしなかったり、立ったりしない)など、平均と自身らを比較して一喜一憂することが多いけど、"平均的な人間"なんか存在しないんじゃない? と主張してみせる。

平均的な人間は誰もいない

たとえば、1940年代のアメリカ空軍では、パイロットが飛行機を制御できなくなる事故が多発していた。最悪の時点では一日に17人のパイロットが墜落事故にあったというから、尋常な状況ではない。で、当然技量の問題とか、機体の問題とかいろいろ考えられるわけだけど、何故かなかなか原因がつかめず、調査は難航していた。

結論から書いてしまうと、事故は機体の設計に起因するものだった。しかしそれはエンジンや操作系統にあったわけではなく、コクピットにある。当時の機体は、多くの人間が満遍なく使えるように、何百人もの男性パイロットの身体の寸法を測定し、その平均値をとって、コックピットの大きさを規格化していた──のだが、調査に乗り出した結果、4063人のパイロットのなかで、胴回り、身長、腕の長さなどの10項目すべてが平均の範囲内におさまったケースはひとつも存在しなかったのである。

これを3項目に絞り込んでみても(たとえば首回り、胴回り、手首回り)、平均値におさまるパイロットは3.5パーセントに満たなかった。つまり、身体において、平均的な人間なんか存在しないのだ。この時、アメリカ空軍は存在しない理想の平均的存在を存在すると誤謬してしまったのである。『平均的な人間に基づいて設計されたシステムは最終的に失敗するという結論で、これは本書の大前提にもなっている。』

 本書では、平均的な人間は誰もいないというシンプルなは層を大前提としている。あなたも、あなたの子どもも、同僚も学生も配偶者も、決して平均的な人間ではない。しかもこれは決して根拠のない励ましでも空虚なスローガンでもない。科学的な事実であり、無視できない多くの結果によって裏付けられている。

"平均的な人間なんか存在しない"とはショッキングな話のようにも思えるが、「ああ、そういえば」と思い当たる人も多いのではないだろうか。自分の年代の平均貯蓄額や、結婚年齢や、年収など誰しも平均と自分を比較したことがあると思うが、どこか著しく乖離していたり、信じきれなかったりする数値が出ることは珍しくはない。

存在しない平均的人間についてのいくつかの具体例

たとえば、赤ちゃんがハイハイを始める平均的な目安は8ヶ月などと言われるが、そうなると仮に9ヶ月経っても自分の子供がハイハイをはじめなかったらちょっと焦るだろう。しかし実際には複数の段階を同時に経験する子もいれば、先に進んだかと思えば逆戻りする子も、途中をすっ飛ばしてしまう子など、さまざまなタイプがいる。その上、場所によっては子供が実際ハイハイをしない地域もあるのだ(子供を地面と頻繁に接触させると、致命的な病気や寄生虫に感染しやすい地域の場合そうなる)。

知性についても、IQのように一次元的に評価できる"総合的な知性"は、実際には存在しない。行列推理、算数、絵画、記号探し、符号化など様々な知性の側面があり、個人によってそのどの分野が得意/苦手なのかに大きなバラツキが存在する。IQテストはそうしたバラツキを”平均化”して「あなたのIQは103です!」と算出するが、これだとまったく適正の異なる知性を持つ人々がみな103に押し込められてしまう。

平均を判断基準として用いている社会

いくつもの事例が平均的な人間の不在を訴えているが、しかし、社会の多くの場面において、"平均は理想の象徴であり、平均以下の者は劣っている"とみなされている。学校で行われるテストの点が平均より抜き出ていた場合、能力があると見なされ就職でも有利になることが多い。逆に、劣っていた場合は「自分はダメだ……」と劣等感を抱いたり、場合によっては目指していた道を諦めてしまうこともある。

つまり現状は社会のいたるところでまかりとおっている常識は間違っているし、その上に築かれている採用や教育といった仕組みも最適解とは言い難い状況にある。逆にいえば、そういう状況を正しく認識すれば、他からは正しく評価されずに落とされてくる才能を拾い上げることが可能になるし、教育にあっても一人一人の個性にあった育て方をすることが可能になるだろう。何より、”自分自身”について、平均とくらべて劣等感を抱いたり、不正確な優越感を抱く状況から救い出すことができる。

たとえば教育に活かすとしたらどうなるだろうか? 学校のカリキュラムは基本的に固定で、ペースまで決められており揺るぎない。しかし、実際には分数はスラスラ理解できるのに小数にはつまづく子など、生徒一人一人で得意な分野も苦手な分野も異なっているのだから、みな一律同じ時間配分というのは無茶がある。自分なりの配分で時間を割り振って勉強させれば、生徒の成績は改善できるのではないか。

そうした仮説のもと行われた実験では、生徒を「ペースの固定化されたグループ」と「マイペースのグループ(固定化グループと同じ時間内で勉強するが、個別指導を受ける)」に分け、教育したところ、教材をマスター(最後の試験で85パーセント以上の正解率を出すこと)できたのは前者が20パーセント、後者は90パーセント以上という結果が出た。これは「ペースの問題ではなく、単に個別指導だったからじゃないの?」と疑問も湧いてくるが、仮にそうだったとしても差があまりにも大きい。

仕事においても活用範囲は広い。「最も働きがいのある会社ランキング」に4年連続で選ばれているコストコでは、社員の給料が他の小売より50パーセント以上高いなどの条件面の厚遇に加え、キャリアパスの決定権を従業員に委ねているという特徴がある。たとえばレジ打ちから仕入れ、バイヤー、注文係、経理部など普通はありえないようなキャリアパスを社内で築き上げることができるのである。

おわりに

教育も含めすべてのケースでこうしたやり方が活用できるわけではないし、画一的なカリキュラムや人事評価なども、ある意味ではそうしなければ現場が回らなかったという状況の産物でもある(個別指導したくとも教師はそんなにたくさんはいない)。

しかし、今では個性に配慮した制度を構築するための科学も育ってきているし、仕事においては、適切な評価制度を構築し社員の能力と忠誠度を高めることで、離職率などを低く抑えられ、かけたコスト以上の利益が返ってくる見込みもあるなどバランスの取り方も多様である。そうした事実踏まえ、変革を要求していく必要がある。

本来、人は一人一人まったく違った存在なのだから、靴のサイズを自由に選ぶことができるように、社会には働き方も、教育も、全ての面において個性にきっちりフィットした生き方を許容できる方向に進んで欲しいと思う。