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想像する力を侮ってはならない──『フォマルハウトの三つの燭台〈倭篇〉』

フォマルハウトの三つの燭台〈倭篇〉

フォマルハウトの三つの燭台〈倭篇〉

この世に三台あるとされる、フォマルハウトの燭台。燭台に書かれた文字はイスラム教以前に成立した古代アラビアのものと言われ、そこには次のような内容が書いてある。「三つの燭台に火を灯すとき世界が終わる 光に圧殺されて闇が息絶えるからである」本書はこのフォマルハウトの三つの燭台をめぐる、神林長平の最新長篇だ。

物語の中に銃が出てきたら、それは発砲されなくてはならないともいうし、そうなると必然的にフォマルハウトの三つの燭台は灯されねばならないが、"世界が終わる"とはどういうことなのか。光に圧殺されて闇が息絶えるから、というのはどういうことか。普通に考えたら世界とは光であり闇に圧殺されて光が息絶えるのではないか──など気になるところはありつつ、読み始めてみれば相変わらずの神林節である。

 想像する力を侮ってはならない。フォマルハウトの三つの燭台を呪物として本気で使うならば、ほんとうに、そのとき、世界は終わるだろう。三つの燭台全部に蠟燭を立て、それに火を灯したその人は、世界が終わるのを見るだろう。

元々メフィストで連載されていたこともあって、燭台をひとつひとつ巡りながら、ミステリ的に謎を追い、話が完結していく連作短篇のような形式になっている。世界の終わりが懸かっているにも関わらず、ノリとしては全般的にコミカルで、シチュエーション自体も人工知能搭載家電の喧嘩など馬鹿馬鹿しい物が多いので、本書が初神林作品でもスラスラと読めるだろう。ただし次第に現実観、意識をめぐる一般常識が崩壊していき、読者も登場人物も"真にリアルな世界"との対面を果たすことになる。

第一の燭台

たとえば『きょうトースターが死んだ。名前はミウラという。毎日ぼくのために二枚の食パンを焼いてくれていた』という衝撃的な一文で始まる第一章では、家電に知能が搭載され、各々にキャラクターが宿り、時に家電同士で喧嘩もする世界の状況が語られる。冷蔵庫に「飲み物が冷えすぎだ」と注意すると「キンキンに冷やせとのことでしたが、気に入らないのなら設定表現を変更してください。やってられません」と返ってくる。冷蔵庫に口答えされるなんてやってられないが、そういう世界なのだ。

そんな世界でトースターが死んだという。知能家電の管理/調整(しつけ役である)が仕事の「ぼく」は、ミウラが自殺したのではないか、仮に自殺だとしたらどんな不満を抱えていたのかと調査を始め、その過程で不思議な力を持つ燭台に出会い、ミウラの死の真相に近づいていく。なんとも不可思議な話、立ち上がりだが、家電の人間への反乱、知能家電と人間の意識の混在など、発生する状況はドシリアスである。

第二の燭台

第二章では、第一の燭台でも出てきた無職のおっさん林蔵を語り手に、"自分で自分を殺した"と主張する男をめぐる、狂った殺人事件を追うことになる。

「被告人の九上野乃依は」と忠則は言う。「こう主張している。自分は仮想の人物を創造して野に放ち、それを自分で殺してみせたのだ、と。しかも、自分が創った非実在キャラこそ、自分自身なのだ、それを世の中に知らしめるために、三権機関に働きかけたのだ、司法、行政、立法それぞれにだ、そう言っている。」

警察には結局自殺と認定されたが、一人の人間が死んでいたのは確かである。それを殺した、というところまでは理解できる。しかしそれが非実在キャラで、そのキャラこそ自分自身なのだと言われると「頭大丈夫か?」以外の感想が湧いてこない──のだが、これにも燭台が関わってきて、VRなどの仮想現実技術も関連しながら、次第に第一章でも出てきた、現実と意識を巡る問題がより大きく浮き上がってくる。

この話はこれまでの神林作品での"意識"をめぐる議論、たとえば"自分の身体をロボットから見ていて、その状態でロボットから見ているということを忘れてしまえば意識はロボットに移ったといえるのではないか?"なども拾いながら、ミステリとしての完成度/驚きも高く、一冊の本としてのテーマにも沿っていて素晴らしい一篇だ。

第三の燭台

第三章では、いきなり実家の仕事として教祖をやれと言われた哀れな無職である林蔵が、彼の元に勝手にやってきたロボットとの共同生活を通して、ついに三つの燭台に火を灯す。世界は終わり、光に圧殺されて闇は息絶える。凄いのは、世界が終わったあとも物語が続いていくことだ。果たしてそれはどのような状況/世界なのか……。

おわりに。"リアルな世界"

リアルな世界という表現がこの作品にはよく出てくる。これはそもそも神林作品によく出てくるワードで、一般的にいうところの現実という意味ではなく、"現実というものの真の姿"を指していることが多い。ようは我々は現実を目なり耳なりといった情報の入出力システムを通して、自分なりの自己解釈を施したあと受け取っているわけであって、それは真の姿とは異なるのではないか。つまり、我々の目の前には解釈済みの現実とは別に、無解釈の"リアルな世界"がある──というあたりだろうか。

で、神林作品では、これまで何度も考察として"リアルな世界"とは何なのか、が語られてきたのだけれども、本書では"リアルな世界"に、軽くであっても直接的に触れているのが(長年の神林長平読者的には)おもしろい。果たしてそれがどのような世界なのかは、読んでもらってのお楽しみというところで。ちょっとメフィストの方では追っていなかったので、この続きがあるのかはわからないが(倭篇ということだから、また別の国の話が始まってもおかしくはない)この先が観てみたいものだ。

余談。電子書籍も出ているが、寺田克也イラストが素晴らしすぎて、物理書籍で買わずにはいられなかった。折り返しまで含めガッツリ描かれてて最高。