基本読書

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未来のゲームをレビューする──『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』

ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム

ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム

著者の赤野工作さんは、ニコニコ生放送でいわゆる世間的に評価の悪かったゲームのレビューをしており、カクヨムでは「2115年の日本を舞台として書かれた、かつて評価の悪かったレトロゲームレビュー」という体裁で進む連載を開始。本書はその書籍化となる──と、まるで最初から知っていたように書きはじめたが、僕は氏の生放送も連載も読んだことがなく、単純に書籍化で手に取った口である。

架空の作品について書かれたレビュー集(書評集)といえば、スタニスワフ・レムの『完全な真空』などがあるが、これ、レムだからいいけど普通はおもしろく書くのはなかなか難しい。そもそもレビューなんて必要とする人が限られているし、少なからず実用性を求められる。架空の作品について述べるとなると、その実用性は消えてしまうのに加え、レビューができるぐらいには本当に実在するかのように、架空の作品を作り込まなければならないので、かなりの力量を必要とするのである。

そういうわけで素人がいきなり書くにはハードルが高いはずで、「そんなに期待しないで読み始めてみるか……」と読み始めた──わけだけれども、これがまた大変におもしろく、色んな意味でうまくて驚いてしまった。

いろんな意味でうまい

たとえば、本書は「世界のあらゆる低評価なゲーム」を対象としたゲームレビューサイト「The video game with noname」の連載という体で進むのだが、レビュー対象がゲームであるというのが、まず大きなアドバンテージになっている。

ゲームの場合、テクノロジーの進歩がソフトの性質を根本から変えていく。つまり現代には現代の、未来には未来の、テクノロジーの発展段階に伴ったそれぞれのゲームが存在している。だからこそ、数十年単位で過去のゲームをレビューする時には(作中では2115年なので、2060年ぐらいでもだいぶ昔になる)、当時のテクノロジーの発展状況、ゲーム史においてその作品がどれほどの衝撃を持っていたのか──という話題を絡めながら、作中世界の歴史、状況を自然に語ることができる。

たとえば、記念すべき第一回は2022年に発売された、「キミにキュン! 人工ヒメゴコロ」というVRポルノゲームについてのレビューだ。このゲームのレビューでは、半ば必然的に2020年代頃のVR機器の受容状態、高品質なVRポルノゲームが現実的ではなかった時代がいかにして変わっていったのか──という社会情勢、ゲーマーたちの心境の変化が語られることになる。第二回目では2073年に発売された、一緒にゲームを遊んでくれるアンドロイド「Acacia」の話を通してアンドロイドと人工知能のレベルの話をし──とゲームを通してテクノロジーを語っていくのである。

また、本書が「低評価なゲーム」を対象としている点もうまい。低評価なゲームと一言でいっても、そこには様々な要因が混在している。バグだらけなのか、製作者の狙いと受け手の受け取り方がズレていたのか、あるいは時代を先取りしすぎて、一部の人間にしか理解されなかったのか。トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭で、幸せな家族はみな同じようにみえるけど、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形があるよねーと書いたが、人間、おもしろいものについて語る時より、つまらないと感じた時の語りの方が語彙も熱量も豊富になる傾向があるように思う。

たとえば、ゲームを遊んでくれるAcaciaの低評価のポイントは、Acaciaが学習しすぎたことにある。ゲームを遊ぶと愉しいという法則がインプットされたAcaciaは、ひたすら練習を続け「負けたらゲームがつまらない」というゲーマーの気持ちを踏みにじり、勝ちすぎてしまった。自分より圧倒的にうまく、絶対勝てないゲーム友達なんか、欲しくはないのはよくわかるから低評価の理由には納得がいくが、それでもAcaciaに負け続けるという体験それ自体は、おもしろくもある。

本書は、そうした低評価ゲームの体験に対して、ゲーマーたちがあーでもないこーでもないとワイワイ賛否両論で盛り上がり続ける様、その圧倒的な熱量を、見事に描き出していくのである。

終わりのないレビュー集

まだまだうまいところはある。レビューサイト、レビュー集の問題点とは、終わりがないところにある。このブログもそうだが、世に本が出続け、僕が本を読み続け、レビューを書きたいと思い続ける限り終わることがない。つまり、レビュー集である本書も終わりがない──と思いきや、本書の主人公ともいえるサイト管理人は、身体をサイバネ化し、延びた寿命を生きてきたが、もう歳も歳で唯一機械化のできぬ脳が老化し、近いうちに死を迎えることが決定付けられている男である。

つまり、本書はゲームレビューを一歩一歩積み重ねながら、同時にもはやレビューをすることのできぬ到達点へと向かう道のりを歩んでいる。あらゆるゲームに溺れ、ゲームを愛してきた男が、ついにゲームをできなくなる悲哀、なんとかして生き続けゲームをやり続けたいという葛藤が織り込まれ、レビュー集でありながらも"ゲームを愛し続ける男の人生の物語"として成立していく。このへんの、"個人の人生"を織り込めるのも、個人サイトの体裁をとっているから可能なところだろう。

SFとしてはどうなのか?

2070年でそれはいくらなんでも技術レベルが低すぎるだろ、とか些細なツッコミこそポコポコ思い浮かぶものの、脳内物質の生成を促し「楽しい」という感情を強制的に引きおこすゲーム、人工知能とアンドロイドと人間の関係性など、月で最初に生まれたゲームで起こった規制の悲劇など、"ゲーム"という視点を通したからこそのテクノロジーと社会の在り方が描かれていて、SFとしても充分におもしろい。

ゲーマーの業

僕はとてもゲーマーとはいえない人間だが、それでも一年に10本ぐらいはゲームをクリアするから、ゲーマーの業、その片鱗ぐらいはわかっているつもりである。本書には、著者の赤野工作さんがまさにゲーマーだからだろうけれども、そうしたゲーマーの業が十全に詰め込まれていく。たとえば環境テロリスト集団によって人員募集のために開発された「洗脳用」ソフトが取り上げられる回があるけれども、このソフトがゲーマーにとって低評価だった理由などは、業そのものだと思う。

 (……)楽しいゲームなら、洗脳されて構わない。むしろ「面白いゲームに洗脳されたい!」と、日々を祈るような気持ちで生きている。それが、私たちゲーマーという人種ではありませんか。(……)
 このゲームが低評価を受けている理由。それは……「ゲームが面白くなさ過ぎて、洗脳されようがない」という、ゲーマー達の、嘆きの声によるものですから。

本書は、ゲーマーほど深く共感し、ハマるのは確かだろうが、そこを遥かに超えて幅広い層が楽しめるであろう懐の深い一冊だ。石黒正数さんの表紙絵も最高だし。

完全な真空 (文学の冒険シリーズ)

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