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アニメとはまったく違う、乙野四方字の『正解するカド』を──『正解するマド』

正解するマド (ハヤカワ文庫JA)

正解するマド (ハヤカワ文庫JA)

TVアニメ作品『正解するカド』が、先日賛否両論を巻き起こしながら終了した。否定的な意見にうなずきながらも僕は毎週楽しみに観ていたけれども、最終話には大いに笑かしてもらって、とにかく楽しい作品であったと思う。最後の大ネタはあまりにもバカバカしく「もうなんでもええわい」とおおらかになってしまうんだよね。

と、そんなわけで本書『正解するマド』はそのノベライズにして、スピンアウト作品である。アニメ作品のノベライズといえば、アニメの内容をそのままなぞるものからまったく別の話まで様々だが、本書は"まったく別の話"にあたる。しかも凄いのは、アニメ脚本との密接なリンクを構築しつつ、野崎まど作品への強烈なオマージュであり、さらには『正解するカド』の世界観を大きく広げる──そんな、一つだけでも困難なことを、わずか250ページ足らずの中で同時に成し遂げているのである。

アニメを観ておもしろいと思った人はもちろん、コナクソ! ぶっ潰してやる! と思った人にもオススメしたいところである(そんな人がいるのかどうかは別として)。単体で読んでも充分におもしろいので、アニメを観る気がまったくない人にも良い。逆に、本書の中でアニメ最終話付近がどのような展開になるのかといったことはおおむねバラされてしまうので、これからアニメを見るつもりのある人は先にアニメを観てしまってから読んだ方が安全ではある。

乙野四方字にしか書けない、乙野四方字の『正解するカド』を

さあ、どういう風にアニメと違う話が小説で展開するのかといえば、あらすじを紹介するだけでその実態はすぐにわかる。何しろ本作の主人公はアニメ主人公の真道ではなく、著者の乙野四方字であり、物語はその乙野四方字が『正解するカド』のノベライズの執筆をはじめなくてはいけないので、延びに延びた講談社タイガの締切を遅らせてもらえないか…と心を痛めながら編集者にメールを送った場面から始まるのだ。

何しろアニメのノベライズなのだから出す時期は決まっており、その締切の優先順位はオリジナル作品よりは高くなる。というわけで延ばしてもらった猶予を前に、カドのノベライズ執筆を始めるわけだが、これがまた簡単にはいかない! 単なるアニメと同内容を書くならただ書けばいいだけだが今回の依頼はそうではないのである。

 ノベライズに関する簡単な打ち合わせを兼ねて、早川書房の編集長、担当の高塚さん、そしてまどさんと自分の四人で囲んだ一席で、まどさんから直接、こう言われた。
「アニメとはまったく違うものを書いてほしい」
「乙野四方字にしか書けない、乙野四方字の『正解するカド』を」

これで責任感の特に強くない人間かあるいは天才なら適当に「ほいほい」と書いてしまうのかもしれないが大の野崎まどファンでもある乙野四方字は(本稿では特に断りなく乙野四方字と書いたらそれは現実の乙野四方字ではなく作中の乙野四方字のことである)この依頼を受け考えに考え込んで、自分にしか書けないものを、尊敬する作家から頼まれたのだから、それだけの物を──と考えこみどツボにハマってしまう。

実際にこうしたやりとりが現実であったかどうかはともかくとして、その結果として出てきたものが、『正解するカド』のノベライズを依頼され何を書いたら良いのか、何がノベライズとしての「正解なのか」と苦悩して悩む乙野四方字というのは、「乙野四方字にしか書けない、乙野四方字の『正解するカド』」としては正しい。何しろ乙野四方字自身の話なのだから、乙野四方字以外には誰にも書けないのだから。

ただ、もちろん本書はそうやって『正解するカド』のノベライズを依頼され、苦悩しつづける様だけを描く一発ネタの作品ではない。まったく原稿が進まず、もうどうしようもなくなってきた乙野四方字は、昔バイト先のコンビニでヤクザが捨てていった覚醒剤を、絶対に使ってはいけない、わかっている。しかし小説が書けないのだから仕方がないのではないか、「一度くらいなら大丈夫なのではないか」と使ってしまう。*1そうしてラリった乙野四方字の目の前に現れるのは、『正解するカド』で強烈な印象を残す、異次元である異方からの来訪者であるヤハクィザシュニナであった。

高度なノベライズにして野崎まどオマージュ

というところまでが冒頭の第〇、一話で、第二話からはこの幻覚としか思えない(が、その後も部屋に居座り続ける)ヤハクィザシュニナと乙野四方字の対話を通して、乙野四方字の陰鬱な家庭環境、またこのヤハクィザシュニナは何者なのか、アニメのヤハクィザシュニナと同一の存在なのか──といった謎が解き明かされていく。

で、地味にこの対話がおもしろく、かつアニメ『正解するカド』の別側面からの紹介になっているんだよね。たとえば、この乙野四方字はすでにアニメの脚本を読んでいるわけだから、「これはアニメと同じ展開だ!」とか「アニメの真道はヤハクィザシュニナとこう会話していたな」とか「アニメの方ではこういう展開だったけど……」というように、アニメの展開や設定の紹介を作品内に織り込んでいくのである。

また、乙野四方字の家庭環境が明らかになり、彼がザシュニナに望むのが「父親を殺すこと」であることが明らかになると、ザシュニナは完全犯罪の資料のために推理小説を読み漁り、勢い余って円城塔『エピローグ』や神林長平『言壺』などのSF小説。SF小説やミステリを読み漁る異方存在というのはそれだけでもおもしろいが、さらには野崎まどの一連の作品を読み、ザシュニナと乙野四方字は長い長い話をすることになる。結論は、『作家という生き物はみな、大なり小なり頭がおかしい』

ここで野崎まど作品が出て来るのが、終盤の展開にも、本書の書名がただのダジャレではなく正しく『正解するマド』であることにも関係してくるのだが、その実態をここで明かすのはやめておこう。一つ言えるのは、本書は"紙の小説でしかありえない"作品であり、つまるところ"諸般の事情により"電子書籍化される予定がないということである。終盤の展開には思わず本を持っている手がブルブルと震えたよ。

他、細かいけどよかったとこ。

とまあ、レビュー記事として書きたいことは書いたので、ここで読むのをやめてもかまわないが、本筋とはあまり関係ない部分で触れておきたいところがあった。本書の中では、赤裸々に乙野四方字の生活が語られていて、乙野四方字がどうデビューしたかという経緯、作家らとの交流のエピソードもある。その中に、野崎まどと初めて電撃文庫の忘年会で出会った時、デビュー作『ミニッツ ~一分間の絶対時間~』について感想をもらうというエピソードがあるんだけど、これが凄くいいんだよね。

 ミニッツ読みましたよ、と言われて、本当ですかありがとうございます、と返した、その次のまどさんの一言。
「あれは、SFですね」
 一瞬、本当に、呼吸が止まった。
 自分のデビュー作であるミニッツという作品には、『学園騙し合いラブストーリー』というキャッチコピーがついている。舞台は日本の学園で、主人公は特殊な能力を持つ高校生。それが美少女たちといちゃいちゃしながら、特殊能力を使って騙し合いをする……という、王道を外れてはいるが、要するに学園恋愛物のジャンルだった。それまでにもたくさんの感想を頂いたが、誰一人としてあの作品をSFだと言った人はいなかった。それは担当編集でさえ同じことだ。
 だが、あの作品は、自分にとってはSFだった。

「他の人は誰にもわからなかったことを、あの人だけは見抜いてくれた」ってこれ完全に恋愛物の文脈であって、本書はある意味では乙野四方字と野崎まどの恋愛小説でもある──という与太話はさておきとして、SF読者ってのはね、確かにこういう感じで盛り上がって、連帯を感じるんだよね、っていうリアル感がある。

「あれは世間的にはそうとは思われていないけど、SFだよね」「ああ、あれは確かにSFの目を持つ者にとっては、SFだ」と時折SF読者は頷き合う時があるんだけど、その時SF読者は、世間から隔絶された、しかし彼らの間には存在する共通のロジックを共有することで、確かな仲間意識を感じているものなんだよね(意味がわかんねー! あれのどこがSFなんだ! と内紛が起こることもある)。

上記引用部の前にも、後にもやりとりは続いているんだけど、思わずこの場面には涙ぐんでしまったよ。あ、もちろん本書はフィクションなので現実にあったエピソードかどうかはまったく別としてね、単純に良いエピソード、リアリティのあるエピソードだなと思ったのであった。では長くなったが、こんなところで。

ミニッツ ~一分間の絶対時間~ (電撃文庫)

ミニッツ ~一分間の絶対時間~ (電撃文庫)

*1:乙野四方字の担当さんは今後事あるごとに「覚せい剤使ってないですよね? と確認したくなるのではないか」