基本読書

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ある日を境に誰も死ななくなった社会で、何が起こるのか?──『だれも死なない日』

この『だれも死なない日』は、ある都市の住人ほぼ全員がなぜか突如として失明してしまった状況を描き出す『白の闇』などで知られる、ノーベル文学賞受賞作家ジョゼ・サラマーゴによって2005年に刊行された作品である。こちらは、『白の闇』と同じく通常ありえない特殊な状況を通して思考実験的に社会を描き出していく作品で、こちらのテーマは、「人から死が奪われたら何が起こってしまうのか」である。

あらすじなど

本作は『翌日、人はだれも死ななかった』という印象的な一文から始まる。人間、いつ死ぬかは正確にはわからないとはいえ、いずれ死ぬのは間違いないので、一定以上の人間が居住している都市・国であれば、統計的には毎日一定の人間が死に続ける。それが、新年の1月1日を境に誰も死ななくなるのである。致死的な事故も、病気も、誰の命も奪わない。それはいったいどこから発覚したのか、といえば、まずは葬儀社からである。いつもなら一定間隔で入る依頼が、突然入らなくなったのだ。

それは素晴らしい事じゃないか、別れるはずだった人と一緒にいることができて、しかも自分自身も死の恐怖から解放されるのだから。と思いながら読み始めるのだが、実態としてはこれがなかなか厳しい状態であることが読みすすめるとわかってくる。まずいのが、人は死ななくなっただけで、病気にならなくなったわけでもなければ苦しみがなくなったわけでもないのである。病気が治るわけではないので、死に瀕した人間は相変わらず苦しむか、意識を失ったままただ呼吸が続き生き続ける。

そうすると、死を前提とした社会は様々な箇所が機能不全に陥っていく。葬儀社は商売あがったりだし、死亡保険には誰も入らなくなる。死なないだけで歳はとっていくので、老人ホームや病院は惨憺たる有様だ。病床が足りない。どうせ死なないのだから家で介護しろという話になっても、それはいつまでやればいいのか。時間が経てば経つほど死なない老人が増えていき、社会が機能不全に陥っていくのは明らかだ。

キリスト教などの宗教は死が消えたことについてどのような見解を持っているのか──などなど、本作は死が消えた世界をシミュレーションすることで、それが人間と人類社会にとってどのような意味を持っているのかが細かく検討されていく。

 専門分野をまたいで招集された政府の諮問する有識者会議の第一回会合は、順調なすべりだし以外のあらゆる言葉を適用できる事態となった。重い言葉を使うならば、その責任は老人ホームから政府に送られてきた劇的な文書にある。とくに締めくくりの、首相、このような運命より、死のほうがましなのです、という不吉な言葉に。いつもながら眉をひそめた悲観主義者と、にこにこした楽観主義者に分かれた哲学者たちは、グラスの水が半分はいっているのか、それとも半分からっぽなのかという古代以来の論争を闘わせるべく、何千回目かの議論に備えていた。

実は本作で死が奪われたのは1000万程度の国民を持つ一国家だけの話で、国境を出ると死が延期されていた人々はその時点で死ぬのである。そのため、国を出ることで死を選ぶもの、あるいは家族によって選ばされるもの。その選択を忌まわしいものとする人々と、業者として国境を超えさせる役割を担うマーフィアと呼ばれる組織の登場など、死に対して様々な立場をとる人間が出てきて、この状況に立ち向かっていく。

おわりに

本作では死がなくなったことによる混乱のみが描かれていくわけではなく、後半はそうした災厄をもたらした「なにか」とチェロ奏者との個人的な関係の描写も展開することになる。いったい人類社会の未来はどうなるのか、この二人(といってよければ)の関係性は、死はどうなってしまうんだ、と最後の一行を読むまで先がどうなるのかわからないジレンマと死への考察が持続していて、ある種のラブロマンス的なおもしろさやサスペンスなど、多様な種類のおもしろみのある作品に仕上がっている。

本作はジョゼ・サラマーゴ83歳の時分に刊行されているが、特徴的な表現ながらも(会話が話者ごとに行が切り替わらず、シームレスに描かれていく)文体は柔らかく、プロットも鮮やかで、老人になってよくこんな作品が書けるなと驚くような一作である。245ページ程度でサクッと読めるので、興味がある人は手にとって観てね。