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mRNAワクチンを接種した人全員に読んでもらいたい、ワクチン開発の奮闘を描き出す一気読み必至のノンフィクション──『mRNAワクチンの衝撃 コロナ制圧と医療の未来』

日本政府によると、日本の新型コロナウイルスワクチン接種回数は1億9800万回、2回の接種を完了した人は総人口の77%と数字が出ているが、本書『mRNAワクチンの衝撃』はそうしたワクチンの中でもビオンテック・ファイザー社によるワクチンがどのように開発され、世界に行き渡ったのかを描き出す迫真のドキュメントだ。

まだワクチンが出回り始めて十分な期間があるわけでもなく、これほどの速度で刊行される(原書も刊行されたばかり)本は中身が速度の犠牲になっていることも多いので読み始めはそこまで期待していたわけではなかったのだが、本書はまるで何年も準備をしてきたかのように中身が詰まっている。面白すぎて一気読みしてしまった。

ビオンテックはまだ多くの人が新型コロナウイルスの危険性を認識していない2020年1月には危機感をいだき、ワクチン開発に向け舵を切っていた。それまで彼らが主に取り組んでいたのはmRNA治療薬を用いたがん治療であり、感染が広まるかすらわからない感染症のワクチン開発に舵を切るのは相当な賭けだった。本書では、そうした重要な決断にあたって、創業者夫妻(ビオンテックはエズレムとウールらが創設したドイツのバイオテクノロジー企業)が何を考えていたのか。ワクチンを開発したとして数万人単位での治験の実施、世界中の国の認可の取得、流通網の確保など頭を悩ます要素がいくらでもあり、それらにどう対処していったのかが克明に描き出されている。

mRNAワクチンがどのようなメカニズムで機能するのかといったことも詳細に語られているので、本書はファイザーもしくはモデルナ製のmRNAワクチンを接種した、もしくはこれから接種する人全員に読んでもらいたい一冊だ。

2020年1月25日

ビオンテックでワクチン開発が動き出したのは20年の1月のこと。まだ新型コロナウイルスの危険性が認識されていない時期だが、ビオンテックのCEOウール・シャヒン(腫瘍学者、免疫学者でもある)は世界はすでにパンデミックのさなかにあり、1950年代後半に猛威をふるったアジア風邪並かそれ以上の流行になりうると断言していた。

ただ、CEOがそう断言したところで、ワクチンを作り始めよう! とことが動き出すわけでもない。ビオンテックはそもそもそこまで規模の大きな会社ではなく、資金にも余裕があるわけでもなかった。他にも、問題はいくらでも挙げることができる。新たに発生するウイルスすべてにワクチンが有効とは限らない(HIVの予防ワクチン開発の試みは失敗した)。ワクチンをゼロから設計し、緊急使用の承認を得るには、数年かかるのが当たり前で、それだけの期間が経ってしまえば、ヒトへの治験に入る頃には新型コロナウイルスは消えるか、誰も気にしていないということが起こり得る。

ビオンテックはmRNAを用いたがん治療を中心に研究・開発を行っていて、結果も出ていた。ワクチン開発に手を出すのは、普通に考えたらリスクが大きすぎる。だが、世界にとってもビオンテックにとっても良かったのは、ウールにこの領域に関する専門的な知識があったことだ。彼はワクチン開発に舵を取る前に、コロナウイルスの構造を理解するため論文を読み漁り、その特徴を理解して、mRNAワクチンでの対処が可能なのではないか、と見込みをたてることができた。その時点では当然完全に大丈夫とは誰にも断言できないが、そのリスクも込みでいけると判断をくだしたのだ。

二〇二〇年一月二四日の時点で、この新たな病に感染したと確認された人の数は世界で一〇〇〇人に満たなかった。二五日、ウールとエズレムはひっそりと二人の間だけで、ワクチン開発に取り組むことを誓い合った。そして二六日日曜日の夜までに、ウールはすでに八つの異なるワクチン候補を設計し、その技術的な構築プランをおおまかに練り上げたのだ。

ワクチン開発プロジェクトは「プロジェクト・ライトスピード」と名付けられ、迅速に開発が進行されるように準備を整えていく。通常はワクチンを開発・設計して、ラットなどに毒性試験をやって、駄目だったら設計からやり直して……と行って戻ってを繰り返すものだが、速度が重要なので、ビオンテックはいくつものワクチンを並行で開発し試験に進めるなど、常識を覆す方法で開発の短縮化を図っていく。

mRNAワクチンの仕組み

ここでmRNAワクチンはそもそも何なのかを解説しておこう。前提情報として、生物の遺伝情報はDNAに保存されているが、それだけでは何の働きもできない。

核の中にあるDNAから必要な情報をコピーし、タンパク質合成を担うリボゾームまで情報が運ばれることで、はじめてタンパク質が生まれるわけだが、その情報の運搬を担っているのがmRNA(メッセンジャーRNA)だ。このmRNAに自分たちが生成させたいタンパク質のコードを入れてやって、細胞中のリボゾームにたどり着かせることができれば、患者が体内で薬を自動生成するような反応を引き起こすことができる。

今回のようなケースでいえば、防ぎたいウイルスとまったく同じ特徴を備えた複製を生成し(これがまず相当に難しいことなのだがそれはそれとして)、それにたいして免疫系が反応し、抗体を生成させることができれば、体は次から本物のウイルスが侵入してきても反応してくれるようになる。あらかじめ訓練を行うのがワクチンの役目だ。

この技術が長い間実用化されなかったのは、mRNAが壊れやすく目的の場所まで届けるのが難しかったりいくつかの理由があるのだが(今ではこれは脂質ナノ粒子と呼ばれる極小の球体に入れることで保護できるようになっている)、ビオンテックはもともとこの分野の研究をずっと続けてきているので、そこは既にクリアされていたのだ。

科学と駆け引きについて

とはいえ未知のウイルスに対するワクチン開発は簡単に進行するものではなく、本書では設計・開発にあたっての難所についても、ここまで書いてくれるのか! と驚くほど詳細に解説してくれている。たとえば、下記はCOVID-19のスパイクタンパク質を複製するとして、全体と一部のどちらにすべきかを検討している一部分である。

 多くの研究者は、スパイクタンパク質の全体を複製すべきだと主張している。一方で、一部分だけを複製するほうが優れた結果が得られると信じる研究者もいた。その一部分とは、受容体結合ドメイン(RBD)と呼ばれる部位だ。受容体結合ドメインはスパイクタンパク質の先端の部分で、肺細胞の受容体に結合する役目を担っている。この部分のみを再生するタイプのワクチンは、理論上、多くの開発者にとってはるかに都合がいい。なぜなら、ワクチンに仕込む「指名手配ポスター」をつくる際、侵入者の顔のごく一部だけを正確に再現できればいいからだ。

このどちらでいくかについてウールに相談を持ちかけられたアメリカ国立衛生研究所のバーニー・グレアムは、当時同時進行していたモデルナ製のワクチンがスパイクタンパク質全体型の設計で開発を進めていたので、一部分だけを複製する受容体結合ドメインに絞ったワクチンの方を勧めたと本書の中で語っている。理由は、モデルナとは別のオプションを試した会社があったほうが、世界のためになるからだ。

結局ウールは「どちらも試してエビデンスに従う」道を行くのだが、こうした世界的危機に対峙するための各立場ごとの駆け引きも無数の人へのインタビューから引き出していて、本書が「短期間で書かれたと思えない」要因になっている。

おわりに

mRNAワクチンは短期間で現れたがゆえに奇跡のように語られることも多いが、その裏側には研究者たちの30年にも渡る奮闘がある。ビオンテックの二人も数十年この技術を研究を続け、いくつものブレイクスルーを経てこの数年でやっとがん治療の分野で実用化にこぎつけたからこそ、今回の感染症に即座に応用できたのだ。

本書は新型コロナウイルス周りだけではなく、そうしたビオンテックの二人のこれまでの研究過程も描き出していて、”科学者である二人のドラマ”として読んでも素晴らしい出来。ここまでいうことはあまりないのだが、ぜひ、読んで欲しい一冊だ。