基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

九つの物語 J・D・サリンジャー

一時間かけて書いた文が消えた・・・・。もう一回あの量を書くのはきついから少なめにしよう・・・

しかし内容が難解だった。正直いって全く意味のわからない短編もあるし。

あらすじついでにちょっと感想

バナナフィッシュに最適の日

フラニーとゾーイーに名前だけ出てきたシーモア最後の日。解説では人間心理がよく書けているとあるが、まあ確かにそうだがそんな事をいったら全作品を通してサリンジャーの人間心理は凄いものがあるわけで、やはり何故こんなことになってしまったかだけれども、これもどう考えてもフラニーとゾーイーのバディの話と全く同じ事がシーモアにもわかったと考えるほかないと思う。

コネチカットのよろめき叔父さん

まったく意味がわからん

対エスキモー戦まぢか

まったく意味わからん

笑い男

攻殻機動隊にも出てきた単語、笑い男。原因と結果はわかるけれども、原因と結果の中で何が起こったのか全く理解できない作品。

小舟のところで

子供の心理というかなんというか考え方?みたいなのが凄いと思う。

エズメのために

戦場で傷ついた男の傷を少女の手紙が癒すというただそれだけの話なんだが、なんかしらんが滅茶苦茶泣いた。超泣いた。自分でもびっくり

愛しき口もとはみどり

皮肉なジョークがきいた精神異常者の怖さを書いた短編だとおもったが違うかもしれない。

ド・ドーミエ=スミスの青の時代

痛い中二病患者が慌てふためくさまを読んで楽しみ小説だと思った例によって違うかもしれない

テディー

やたらと頭のいい少年が、仏教的なモノノ考え方で大人をやりこめる話?しかしやけに印象に残る話だった。何はともあれ大人になるにつれて誰しもくだらない人間になっていくというのは全くわかる話であるし。

ほとんど内容理解してねーじゃねーか!
まぁしょうがない。
やはりサリンジャーの凄いところといえば、これもまた勝手に思っているだけだが意味はよくわからないけれど、凄いという事だけはわかるというところだろうか。あるいは意味わからないけれども、重大な意図が隠れているように思わせる能力か(本当に隠れているんだが)村上春樹もそんな感じ・・・。

九つのうちそのどれもが、丁寧な描写に彩られたとても面白い小説であったのはいうまでもない。まったく意味がわからなかったと書いたコネチカットのよろめき叔父さん、対エスキモー戦まぢかにおいてもそれは同様である。 何かとっかかりを与えてくれるような作品なのだ。

そしてさりげない文章表現の数々が、どれ一つとっても他人に真似できないぐらいの優雅さというかなんというか、自然なのである。普通に話している場面一つ切り取っても余人には真似できない精緻な描写によって書かれている。圧巻である。

ネタバレ有

バナナフィッシュに最適の日

これはやっぱりシーモアが死んだのは少女と出会って、天啓を得たからとしか考えられん。それ以外の考え方が何かあるとしたらなんだろうなぁ。現時点ではこれぐらいしかおもいつかん・・・。

笑い男

どう考えても男の最後のストーリーが悲惨な話になってしまったのは女の人と関係してるっていうのはわかる。わかるが、その内容にどんな暗示的な内容が含まれているのかまでは全くわからんな。いったい何が彼をそんなにやさぐれた気分にさせてしまったんだろうと想像するほかない。単純にフラれた、とかそんな話じゃなさそうだが・・・。
このトラウマを植え付けられた子供たちがはたしてどうなるのか・・・全く想像もつかん。

エズメのために────愛と惨めさをこめて

少し大人びたエズメの優しさ?愛?しか感じられないぜ・・・。まぁしかし、明らかに狙って感動させようとしたシーンでもあるので泣いてしまったのは少々不覚というか悔しいという気がしないでもないが・・・。主人公の名前が伏字になっていて、ほとんどのものはそれが誰かわからないだろうと書いてあるがきっとそれは照れ隠しのようなものであって、実際にはすぐにそれが誰だかわかる・・・と思う。

手紙はやばい。手紙は反則だって・・。精神を病んだX軍曹殿が救われる描写には胸が表れるようだ。できる事なら全部書きたいがそんな事をしても無駄だ。全部書けないなら一部分だって書く意味はないというそれぐらい完成された文だった。そのあとの部分を引用する

Xはこの手紙をすぐには脇に置く気にならず、むろんエズメの父の腕時計を箱から取り出そうとも思わなかった。やっと腕時計を手に取ったとき、ガラスが郵送中に壊れたのに気づいた。他の所もダメになりはしなかったろうかと思ったが、ネジを巻いて試してみる勇気はなかった。彼はただその時計を手に持ってまたしても長い間じっと座っていた。やがて不意にうっとりとした気持ちになり、眠くなった。
 エズメよ、彼は本当に眠たくなったのだよ。本当に眠たくなって眠れば、彼はそのうちに精神と体のあらゆる能力が無事な人間に戻ることができるのだよ。


眠りって大切だなぁー。

愛らしき口もとはみどり

二人で寝てる男女の元に、男の友人から妻が帰ってこないどうしようと電話がかかってくる話なのだが、最後の反応を見るとどうも男の隣で寝てるのが友人の妻なんだよなぁ?それで妻が帰ってきたーと男の友人がいってるのはそれは気がくるって幻覚でもみてるって事だと思ったんだが・・・違うかもしれないな・・・。

ド・ドーミエ=スミスの青の時代

痛すぎる・・・・。設定年齢は19歳ということだが、サリンジャーがこれを書いた時代を考えるとまだ寿命も短くて19歳でも十分立派な大人としてものの見方が出来るようになってて当然の年齢だと思うんだが・・・・
今の19歳ならまだわからないが。メールの語尾にハートマークがついてるからこの子は俺の事を好きだと勘違いしちゃう男の子ぐらい痛いぞ・・・

テディー

「ぼくたちを絶えず少しずつ変えることができなければ、ぼくたちを愛することは出来そうもないんだ。両親はぼくたちを愛すると同じ程度に、ぼくたちを愛する理由を愛している。ほとんど理由の方を愛しているといってもいいくらいだ。そういうのはよくない」

これはようするに、女の人があの人形かわいいーっていっている自分を愛しているのと同じような話か。親も自分の理想とする子供に子供をしたくてそれに近づけようと頑張っていると。ありのままの子供を愛そうとする親は思いのほか少ないのかもしれない。自分の個人的見解から言わせてもらえば、親が子供の才能を潰すことはたくさんあっても、親が子供の才能を伸ばすことはない。

「万物が神だということが分かって、髪が逆立ったりしたのは六歳の時だった。今でも覚えているけど、あれは日曜日だった。妹は本の赤ん坊で、まだミルクを飲んでいた。ところが突如として、妹が神で、ミルクも神だってことがわかったんだ。つまり、妹がしていたことは、神の中に神を注ぎ込みことにほかならない。ぼくのいうことがわかるかな?」


六歳にしてシッダールタが厳しい修行のすえにつかんだ真理に到達するとは末恐ろしい子供よ!
テディーがいいたいのはとどのつまり、この世のものはすべて何でもありだということだろう。というか、考えるだけ無駄ということか。考えるという行為自体がそもそも間違っているというような、いや違うか。感情とか、物が長いとか高いとか安いとかうるさいとかそういったものが全部個人の価値観から来たものである以上それに意味なんてないとかそういった感じである

「良心やいろんな人が教えた事をすっかり取り出して子どもたちの頭をからっぽにしてやる。もし両親から象は大きいと教えられていたら、そいつを追い出して頭を空にしてやる。象が大きいのは、他のものと──たとえば犬だの女の人だのと──比べた時だけなのだから」
「色は名称にすぎないから、草が緑だと教えれば、子供たちはあるひとつの見方で──教えた人の見方で──草を見るようになってしまい、同じくらいまともな別の見方、いやたぶんもっといい見方でみなくなる・・・・・」


大人になるにつれて何もかもダメになっていくんだ・・・・という気分にさせられてしまうよ。この理論からいったら、生まれた瞬間何の先入観もなしにすべてを自分解釈していかなきゃいけないんだから。これはこれであれだな。この考え方は、何よりも大事なものだと思うよ。まだ色々書きたい事はあるけれども、さすがに疲れてしまった。おしまい