基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

上弦の月を喰べる獅子/夢枕獏

あらすじ

これは、進化についての物語である。
同時に、宇宙についての物語である。
さらに、物語自体が、遺伝子の二重螺旋の構造をもった物語である。
               (あとがき)より

感想 ネタバレ無

読んでいて思い出したのは、遠藤周作の深い河。 そしてヘッセのシッダールタであった。遠藤周作の深い河を読んだのは、確か小学生の頃だったから、もう10年以上前になるが・・・。
不意に内容を全部思い出したような気がした。

シッダールタはいわずもがな、仏教的な思想が出てくる作品は、全てこの作品と比較してしまうだろう。

最初にあとがきから読みだしたのだが、これは僕にしか書けない物語である!と断言し続けていて、な・・・なんだ、この自信過剰野郎は・・・信じられん、信じられん・・・と呆然となったものだが、まぁそこのところはよくわからない。

読んでいる最中に、自分もその世界に入りこませてしまうタイプの小説であった。そうなると自分は、ページをめくるのがひどく億劫になってしまう。ページを一回めくるたびに、現実に引き戻される感覚を味わう。非常に、めんどうくさい。

念じたらページがめくれるようになればいいのだが。
物語の構成から遺伝子の構造をもっている、というのは凄いこころみであると思ったが、凄いと思った反面、それに何か意味があるのだろうかと考えずにはいられん。

面白さで言えば、不思議な面白さであった。かなりの長さであるにも関わらず、結局読み始めてから止まれなくなって、しなきゃいけない事もすべて捨ておいて読み続けていた。さて、そこまで熱中したのだから、さぞおもしろかったのであろうと言われたらそれがまた微妙な話である。仏教的な思想のみを追い求めたのならば、シッダールタのほうがよっぽど簡潔で出来がいいと感じるのだが、そういうものでもない。螺旋という要素抜きに、語る事は出来ないし、宮沢賢治についてもあまりよくしらない自分が語るには少々荷が重いな。

それから外せないのがラストか。クライマックスで何が来る・・・何が来るんだ・・・?と身構えていて、あれが来た時の反応は、一体どうすればいいのだろうか。
感じたのは、螺旋の世界という全く別の世界を通して、宮沢賢治などの全く別の人間を通して、シッダールタが解脱に至るまでの過程を書いた本だという事。だろうか。神話だと思った。いや、神話になりかけた話か?

仏教的知識がない人間には非常に読みにくいものだ。涅槃とか説明されてもわからないぜ。なにしろ南無妙法蓮華経の意味すらよくわかっていなかったんだからな。
法華経の教えに帰依をするという意味らしいが、じゃあ法華経ってなにさ?という疑問になっていくわけで。まぁそれは仏教の経典という意味なのだが。

ネタバレ有

問 また、問う。涅槃とは何か。
答 空間と時間とが均一に溶け合ったもの、同じ状態になったものが、涅槃である。
問 さらに問う。涅槃とは何か。
答 涅槃という空間と、涅槃という時間の中に存在する螺旋は、その数も、その大きさも、その質も等しい。涅槃は、完成された螺旋である。涅槃は、仏の家である。涅槃は仏が存在するために必要な時間と空間のことである。


仏とかが出てくるとさっぱり意味がわからなくなってしまうのですが。汝は何者か、という問いに私は涅槃である、という答えで、あっているような気がしてくるのですが違うのですかねえ。これを読んだときそう思ったのですけども。

螺旋収集家と宮沢賢治が双人であったように、ダモンとシェラも、前の二人と同じように対比される存在であったのでしょうが、主人公4人態勢といっても過言ではありませぬな。

しかし、両性具有というのが、螺旋というものの見方を考えた時に、人間としての本来あるべき姿なのではないか、という疑問がある。男と女を一人の体に合わせもった完全なる変体?だか何だか、になるのが本来の目的ではないのだろうか。本書に出てきたペアというのが男男(螺旋収集家、宮沢賢治)、男女(ダモン、シェラ)、女女(とし子、涼子)
というのはどういう事だろうか。と思ったが、全体としてはこれであっているのか。
とし子と涼子だけ普通の日本人の名前でわろたが。

「わたしは、’’螺旋収集家’’です」
わたしは言った。
「わたくしは、’’一人の修羅’’なのです」
わたくしは言ひました。

なんてことない1シーンに見えるが、名前が思い出せなくなった時に、私は螺旋収集家です、と自然と口をついて出てくるというのは、起源というものを意識させられる。何もかもが無くなったときに、自分に残るたったひとつのアイデンティティとでもいうのだろうか。螺旋収集家であり、一人の修羅、であったのだろう。

「汝は何者であるか?」
静かに、それが問うた。
(中略)
答えは、そこにあった。
いや、自分は答であった。
じぶんが答であるなら、自分は自分の名をなのるだけでよいのだ。
答が、自然に滑り出ていた。
「私です」
双人は答えた。
「私は、私であります」
因果は答えいた。
「私は私である私であります!」


我思う故に我あり、ですね、わかります。
そのあとに、お前はお前でありお前は私でもあり、お前は石でもあるのだ。という事を話されますが、ほとんど同じ内容をシッダールタの方ですでに引用しているので省略。

因果が、ふたつ目の問を獣に問うた時、同時に、獣が、因果にその問を問うていた。
「朝には四本足、昼には二本足、夕には三本足の生き物がいる。それは、何であるか?」

ってこれ、ただのなぞなぞやん・・!スフィンクスのなぞなぞやないか・・・!しかも世界で一番有名ななぞなぞやん・・・!じいさんになって杖ついて三本足になります。ってそんなオチありかい・・・・!

だが、本編では、双人であるわたしとカルマあわせて三本足です。といっているが、お前とカルマあわせたら4本脚になっちまうじゃねーか。カルマそれとも足1本しかないのか?

意味がよくわからんとです・・・

「野に咲く花は幸福せであろうか?」
問うた時、そこに、答えはあった。
問うたその瞬間に答が生じ、問がそのまま答となった。
野に咲く花は、すでに答であるが故に問わない。

「人は、幸福せになれるのですか?」
また、声が訊いた。
答は賢治にはわかっていた。
はっきりと、わかっていた。
「なれますとも」
賢治は答えた。
「わたしのような者でも?」
そのひとは、口ごもり、もう一度、問うた。
わかっている。
わかっているその答を、その人にはっきりと伝えなければならない。
これ以上はないほど優しい視線で、賢治はそのひとの存在をさぐった。
「なれますとも!」

いいですとも!

ああ、救済の物語だったのか、とここを読んだとき、思った。幸福だとかなんだとか
、そういう物は野に咲く花だろうが、罪をおかした人だろうが、関係なく幸福になれるものだったのか、と。私が石であるように、仏陀であるように、幸福でもあったのだろうか。
もし、あとがきで書いてあったように、夢枕獏という作家がたったひとつの事にも、逃げなかったのだとしたらば、この答にも真実があるといいな。

一つの真理は常に、一面的である場合にだけ、表現され、ことばに包まれるのだ。
(シッダールタ/ヘッセ)より


書きたかったのは、ことばを使って、多面的に感情を伝えるという事だったのではないかな。