基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

走ることについて語るときに僕の語ること/村上春樹

あらすじ
村上春樹のエッセイ、タイトルのまんま

感想 ネタバレ有

まず間違いなく日本で一番有名な小説家が、その生きる過程においていったい何を見て、何を感じてきたのか、というのが気にならないはずがない。

エッセイを読み終わったというよりも一冊の長編を読み終わったときの気分である。確かに言葉にしてしまうと大したこの事ではない、とばっさり斬ってしまう事も出来るような内容だ、ただ村上春樹が何を思って走って、何を思って書いたのか、そういう事が書いてあるだけなのだが、非常に面白い。

何が面白いって、まず日本で一番有名な小説家が書いたエッセイというだけですでに常人が書いたものより面白いし、単純に走る、という事がどういうことなのかが、実体験としてつづられている分わかりやすくて伝わってくる。

しかし改めて考えると、自分は何を求めてエッセイというものを読んでいるのだろう。
作家と作品は切り離して考えるべし、というのが根底にある。作家がどんな犯罪者で女子高生を売春してつかまろうが、その作品に罪はないし、作品に書かれている事をそのまんま作家が考えている事だという考えもまるでお門違いだ。

だったら何故エッセイを読むのか。それはやっぱり、この作品を書いた人は、いったい普段何を考えているんだろうと気になるから、だろう。そうとしか考えられない。でもそれを作品と結びつけるわけじゃないんだよなー。何でエッセイなんて読んでいるんだろう。不思議だ。

走ることについてだけ書かれた本なんて、ないだろうと書こうとした今この瞬間思いかえしてあるだろう。多分マラソンランナーとかが書いてるだろう。知らないけど。

だが何度も言うようだけど、それが日本で一番有名な小説家が書いた走ることについての本なのだ。
まさか実力も伴わないのに、宣伝だけで一番にはなれないものだ。こと芸術などといった、創作方面に関しては。

そこにはやはり、経験則といったものが含まれているし、ある種のノウハウみたいなものが浮き出ているのだ。

継続すること──リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。しかし弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気を使っても気を使いすぎることはない。


何も小説を書くという事に限った話ではない。
ブログだってなんだって、継続する事が大切だというのはどの世界でも同じなんだなぁ、思わされる。継続が大事ではない物事なんて、そうそう思いつかない。


僕は才能の人ではない、と村上春樹は書いている。自分の中にある鉱脈を、苦痛に耐えながら堀り、掘り、掘りつくしたら別の鉱脈を探しに行く、そんな努力の人だと。
村上春樹の基準でいったら、どこからが才能なのかはわからないが、あの卓越した隠喩能力は一種の才能ではないか?と凡人の自分は思ってしまうのだが。
あれを努力でどうにかなると言われると、お前は全く努力というものをしないバカ者だな、と言われているような気がして少し落ち込むのだが。
しかし脳の中の幽霊、でも書いてあったことなのだが、こういう物事と物事をジャンプさせてつなぎ合わせる、といったことは多大に脳の配線が関係してくるのではないか。つまり脳の構造自体がすでに才能ではないかと思う。自分では自覚出来ないだろうか(それが当たり前の事だから)

人生は基本的に不公平なものである。それは間違いのないところだ。しかしたとえ不公平な場所にあっても、そこにある種の「公正さ」を希求することは可能であると思う。それには時間と手間がかかるかもしれない。あるいは、時間と手間をかけただけ無駄だったね、ということになるかもしれない。そのような「公正さ」に、あえて希求するだけの価値があるかどうかを決めるのは、もちろん個人の裁量である。

別にどうという事はない。なるほど、と思っただけだ。確かにそうだね、と。

しかし写真を見る限り、どうみても普通のおっさんである。とても日本一有名な小説家にはみえない。どこにでもいて、スーツを着て会社にいってそうな人だ。だが、内面には関係がないのか。いや、内面と外見は意外と関係しあっている(と思う)正反対となって現れる場合もあるし、そのまんまあらわれている場合もある(つまり何でもある)普通のおっさんという印象がそのまま当てはまるかどうかはわからんが。