基本読書

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世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい/森達也

あらすじ
世界は豊からしい

感想 ネタバレ有

何が言いたいのかはわかるが、うじうじとよく悩むやつだ。テレビ業界への不満たらたらのくせに、いつまでも居座ろうとしたりと行動がわからぬ。

業界が不満なら辞めればいいし、不満でも好きで好きでしょうがないならやればいいっていうそういう単純な思考が出来ない人のようだ。

単独の価値や感覚は異物として場から排除され、時には丸めこまれ、私であるはずの主語が気付かぬうちに複数となり、個は全体の動きに無自覚なままに同調する。小さな場は川の流れのように幾つも合流しては吸収され、やがて抗えないほどの巨大な流れとなり、人はその奔流にのみ込まれる。いったんどっぷりと浸かってしまったら、この流れはもう自覚できない。なぜなら周囲すべてがその流れの中にいるのだから。

ようするに森達也氏がエッセイの中で愚直にも繰り返し繰り返し述べているのは、上記の事だと思う。
伊坂幸太郎の魔王も似たような話だ。
ようするに自分で考えるのを放棄して、周りの流れに同調するだけで何がおかしいのか、自覚できなくなってしまうこの状況が何よりも危険だ、と言っているだけだ。

マスコミが悪だといったものに、同調して何故悪なのかを自分でよく調べもせずに、マスコミが悪だといったから悪なのだというようなアホな考え方をする人間を、少なくしたいらしい。

正直いって、そんな事知っちゃこっちゃないよな、と思いながら読んでいた。他人が同調してまるで見当違いの人を叩こうが、間違っていることに自分だけが気付いていようが、まるで興味がない。勝手にやってくれというような感じだ。ただ自分がその被害者になりそうな時は、なんとかわかってもらおうとするだろうが。自分の番が来るまでこんな問題に関わろうとしたくない。

森達也の行いが無駄とは思わないが、限りなく意味がない事だとは思う。エネルギーの無駄だ。自分が困ったら初めてアクションを起こせばいいのだ。
見過ごせないほど人がいいのなら、抗議すればいい。ほとんど意味がないだろうけど。とりあえず気が済むだろうから。要するに、自分が森達也に対して思った感想はこの結論に収束する。

やりたきゃなんでもやればいい、俺は関係ないけどね

なんという無責任な人間だ。最悪である。

この社会は平等じゃないとつくづく感じていた。機会さえ均等なら後は本人の能力や努力次第という言い方もできるけど、でも実はその機会すら決して平等ではないし、さらにその機会を逸した人に対しては、いつの世も過酷な状況が待っている。


何を今さら当たり前の事をいっているんだ、というような気もする。いったいどこのだれがこの社会が平等だなんていったんだ。機会も均等なわけはない。

読めば読むほど色々な事に悩んでいるお人である。自分とは全く正反対の考え方だと思う。こんなにいろいろ悩まなくちゃいけないことが、思考の停止への脱出だというのならそんな脱出はいらん。思考停止したままで居た方がよっぽどマシだ。おそらく、思考停止したままでいるというのは最も安易な道なのだろう。自分で決定しなくていいのだから。
だが思考停止から抜け出すために悩むというのは、まるで意味がない。悩みなんて解決策がないのなら同じところをぐるぐる回っているだけで停止しているのとなんら変わりないじゃないか。