基本読書

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西の魔女が死んだ/梨木香歩

あらすじ
西の魔女が死んだ

感想 ネタバレ無

びっくしたーびっくしたー。ラストびっくしたー。でも帯にラスト3ページであなたはすげーものを見るぜ!というような事が書いてあって身構えてしまったのが痛い。そんな事を帯に書くなと。見てしまっただろうが、そして身構えてしまっただろうが。最悪のネタバレだぜ。同じ事を今自分がやっているわけだが

空気の演出がとてつもなくうまい。ゆったりとして、何もかも許されて、漫然と過ぎていく日常という時間の流れを実際に自分がおっているかのような錯覚に陥る。

一人一人、登場人物なんてそう多くないけれど、立派な立ち位置をもって生きてるというのがその少ない描写の中から、十分に伝わってくる。父親と母親なんて、ほとんど会話なんて出てこないのにその人がいったい、どういう人なのかが伝わってくる。

ただ淡々と続く日常描写は退屈といえば、非常に退屈なのだよなー。ラスト3ページのために読んでいたようなものだ。それでも、大切なものはあるけれど。

無条件に注がれる愛というのは、なかなか得がたいものがあるよな。顔がいいからでも、成績がいいからでもなく、ただその人がその人であるから愛す、というような。

ネタバレ有

まいがところどころ大人びすぎているように感じた。
母親が扱いにくい子と自分の事を言っているのを聞いて、認めざるを得ない、と即座に認められる中学生というのは、ちと怖いな。

「わたし、やっぱり弱かったと思う。一匹狼で突っ張る強さを養うか、群れで生きる楽さを選ぶか・・・・・・」


こんな事言う中学生ちょっとイヤだわ・・・!しかも一年生だし。でもかたくなに一つの考え方に固執するところが、やはり中学生なのだろうか。少なくとも自分が中学生の時はこんな事考えていなかったが。群れとか個とかをほとんど意識していない時だったからな。ハブかれる事によって個を意識したら、こういう考えにいたるのかもしれぬ。

「その時々で決めたらどうですか、自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマを責めますか」

なんというか、ダメ人間に言ったら涙を流して喜びそうなセリフだ。ようするに気に入らなかったらどんどんやめちまえばいいんだからな。仕事が気に入らなかったらやめればいいし学校が気に入らなかったらやめればいいと。
そのかわり、やめることによって生まれるリスクは、甘んじて自分自身で受けないといけないのだけどな。このご時世つらいから仕事やめるなんていってたらどんどんつらい場所においやられていくだけやねん・・・そう簡単にやめられないっすよ・・・。リスクと釣り合ってないもん・・・。

だれもシロクマの事を責めないけど、周りの環境がシロクマの事を責めるだろう。
それに極論すぎるな。自分が突然傭兵として雇われて何の訓練もなしに、戦場に送り込まれた時とかはこのセリフが適用されるような気がするが、現実問題北極か南極かの些細な違いしか身近にある中ではないきがする。

北極か南極かって物凄い違うけどな

なんで魔女が、まいがおばあちゃん大好きって言ったときだけ英語で、アイ・ノウっていうのだろう。普段あんなにペラペラと日本語喋っているくせに、アイ・ノウだけ英語て・・・・ああ、あとマイ・ディアとかも喋ってたな。結局英語でしゃべってんのこの二つしかないじゃないか。いったい他のパターンとどういった違いが・・・。気になって夜も眠れないわ。
いやでもおばーちゃん大好きーっていわれて、私は知っているよ、なんて日本語で答えたらちょっと恥ずかしいかもしれない。だから英語でいってんのか?

ちょっと自意識過剰っぽいしな、私は知っていますよ、なんていうと。
アイ・ノウっていうときの雰囲気がちょっと神聖な感じなんだよなー。

それにしてもラスト3ページはかなり凄いな。魔法が実際にあるかどうか、っていうのは置いておいて、なかなかいい話だ。ここに書かれてある事だけじゃ、本当に魔法なのかどうかなんて事は区別がつかないことだ。思いこみと言われれば、そうか思い込みかと簡単に納得できるようなことしか書かれていないし。

離れたところにいるはずのあいつから声が聞こえた、とかも、こういったオカルト的な話だとよくある話だしな。一般的な解釈は思い込み、だがそう考えるのは邪道だろう。
最後ページを変えて
「アイ・ノウ」は卑怯だ。じわーっとくる。

ガラスに指で何かをなぞったあとで

ニシノマジョ カラ ヒガシノマジョ ヘ 
オバアチャン ノ タマシイ、ダッシュツ、ダイセイコウ


もし仮に魔法に否定的な意見でかかるとすれば、死期が近い事を悟ったばーちゃんが、死んだら来るはずのまいを見越して書いておいたという仮説がたてられるが、そもそも窓ガラスの埃を利用して書かれたものだから、そうそう長いこと持たないだろう。そして心臓発作なのだから、予期出来ていたかどうかはかなり疑問だ。

おばあちゃんは先に起こる事が一つだけわかる、といっているけれど、これは確実に死のことだよなぁ。だれだってわかるし、自分が死ぬ事は。
そう考えると、わかるのは死だけなのだから、未来を知ることによって利用できるのも、死だけだ。つまり上のガラスに指で何かをなぞったあと、というのは死を利用したサプライズという事になる。

正しい読み方は本当の魔法なんて存在しないけど、おばあちゃんはある意味、魔法を使っているんだよ、的なノリなんじゃないかなあ、魔法はあるよ派と、魔法はないよ派だと、どっちが多いんだろう。自分はどっちかというと魔法無い派だが。もし仮に魔法なんてものが存在するとしても、少なくともおばあちゃんには魔法なんて使えなかったんじゃないかと思う。他の人につかえたとしても。


魔女修行なんていうのも、完全に実生活に重要な事だしな。毎日規則正しい生活をして、何でも自分で考えるクセをつける。森達也でも伊坂でもないけど、思考の停止を起こさせない。
毎日空は晴れていて空気は気持ちよくて、そんな日常が何よりも大切なのだ、というような事が感じられるいい小説だった。

ここからは微妙な事をぐだぐだと考えていきたい。何故おばあちゃんが、アイ・ノウとかマイ・ディアとかだけを英語でいうのかという謎について。
元々が英語が母国語なのだから、一番重要な事を伝えたいときには、英語になってしまうのではないだろうか。

それにしても、まいがおばあちゃんのところに2年間もいかなかったのは、ちょっとひどくないか?魔女修行をして、精神的に強くなったというのならば、おばあちゃんにも会いに行けたはずだが・・・。それにゲンジさんにも結局謝っていない。本当にまいは成長したのか?確かに後の短編では成長がうかがえるが、本当におばあちゃんのおかげで成長したのかはあやしい。ただ、おばあちゃんが自分を無条件に愛してくれる存在であり、会いに行くと昔の自分に戻ってしまうかもしれなかったからいけなかったという説は考えるに値すると思う。

それにしても、自分から友達を作るのをやめておきながら、イジめられてすぐに学校をやめるってのはどうなの?と思ってしまう。何もイジめられている人間を責めているわけではないのだが・・。もともと友達を「作れる」子だったのに、めんどうくさいからという理由でそういった行為をやめて、それでイジめられたらドラえもーんってそれはちょっとないんじゃないの?

さらに、死からも逃げている、と考えられなくもない。まいが死んでも世界は変わらずに続くし、まいが生まれる前からこの世界はあった、という当たり前すぎる現実から逃げているじゃないか。おばあちゃんの魂論によって。どうもそのあたり、納得いかないのである。結局その場しのぎのウソで逃れているようにしか思えん。あるいはそれをいったら宗教などを敵に回すようなものだが・・。これはもうおいておこう。