基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

利己的な遺伝子/リチャード・ドーキンス

これはなかなか長丁場になりそうだぞ。何文字書くことになるやら。

生物界を操る、利己的遺伝子の真相に迫る。

感想 ネタバレ有

正直いって、人生が変わるとまでも言わなくても、人生観を一変させてしまいそうな、そんな内容だった。これを中学生の時に読んでいたら、今とは全く違う人間になっていたかもしれないというそんあ予感もある。

あまりにも衝撃的すぎて色々考えながら読んでいたら、全部読み終わるのに1か月近くかかっている。中断したりなんやりで、内容を確かに覚えていられないのが非常に残念だ。ちょっとづつでも、考えた事をメモしながら読んでおけばこんな事にはならなかったのだが。

全く数学というものを使わないからか、恐ろしいほどにわかりやすい。こんなにわかってしまっていいのか、とか、こんなに面白くていいのか、という思いを抱きながら読んでいた。およそ想像しうるかぎり最善の文章が使われているように感じる。



読んでいて、田中ロミオの原点を見たような気がする。ミームだとか、家族計画だとかは、ここからとったものなのだろうか。ミームは確実だから、家族計画も当然、そうなのだろうとは思うが。

少しずつ引用しながら先に進んでいくとする。

 私は、淘汰の、したがって自己利益の基本単位が、種でも、集団でも、厳密には固体でもないことを論じるつもりである。それは遺伝の単位、遺伝子である。

全ては、遺伝子なのである、という考え方は、最初は意味がわからなかったものの、最後にはなるほど、と考えるようになり、さらに何故そうなったのかというその先まで考えられるようになった。
それはつまり、何故遺伝子は体というものを構築するのであるのか、というような問いである。

 ことばというものはわれわれが自由に使う道具にすぎず、またたとえ「生きている」というようなことばが辞書にあるからといって、そのことばが現実世界における何か明確なものを指しているとは限らない。人間の苦難はこういったことを理解していない人があまりに多いために生じているのだ。

これは完全に同意である。ことばは、ことばとして発せられた時点で、ありのままの意味を失ってしまう。何かしゃべればしゃべるほど、その人はウソをついているといってもいいかもしれない。およそ本当の事なんて、ことばで説明できるものではない。哲学的な見方かもしれないがあなたのみている赤と、私のみている赤は、違う赤かもしれない、というような話でもあるし、違う意味でもある。うまく説明できなっ

 一つの生存機械はたった一個のではなくて何十万もの遺伝子を含んだ一つの乗り物である。

ここでいう生存機械というのは人間にとどまらずにこの世に生きている、と定義されるありとあらゆるものである。生きているという言葉は上に書いたように、特に明確に決まった意味があるわけではない。

 DNAのいう真の「目的」は生き延びることであり、それ以上でもなければそれ以下でもない。

今こうして笑ったり泣いたりしている自分は、DNAが生き延びるための装置でしかない。

 意識とは、実行上の決定権をもつ生存機械が、究極的な主人である遺伝子から解放されるという進化傾向の極致だと考える事が出来る。

意識というものを持っている人間が、特別な存在だという事。このことについてはのちに後述。

 ──利他的なものにせよ利己的なものにせよ──が進化するためには、その行動のための遺伝子が別の行動のためのライバル遺伝子、すなわち対立遺伝子よりも遺伝子プール内でうまく生き延びることが必要である。

これも本書の中でかなり重要な話である。すべての遺伝子は、現場に適応していける遺伝子のみが生き延びていける。

人間でたとえれば、狩りを主流とする人間の足が、長ければ長いほど、狩りに有利だ。そうすると足の長い遺伝子を持った人間は、のちの生存競争を生き抜く可能性が高くなる。短い脚の遺伝子を持った人間は、獲物を狩れず死んでいくからだ。その場合、足の長い遺伝子が残り、短い遺伝子は消えていくことになる。

第五章、攻撃──安定性と利己的機会では、生存に効果的な戦略、という観点から遺伝子というものを見ている。戦略は基本的にシンプルなもので、たとえば小さければ逃げろ、大きければ攻撃しろ、といったたぐいのものである。

ライオンはたまに、自分の子供を食べる事はあるが、他のライオンの子供を食べる事は決してない。それは報復の危険が高いからである。

第六章、遺伝子道では、利他的な行動をとる時に、いったいどういう計算がおこなわれているか、というような事が書かれている。

例えば兄弟がおぼれかけていたとして、その兄弟は自分の遺伝子を50%は持っているわけである。その場合、あまり危険でない場合なら確実に助けるであろう。もし仮に危険で、死亡率が50%を超えそうな場合は考えるかもしれない。50%を得るために、自分が持っている遺伝子100%を潰すことはないからだ。

全く知らない他人でも、それがほとんど危険のない場合ならばプラスになる可能性が高い。なんらかの「見返り」が得られるかもしれないからだ。仮に得られなかったとしても、それはしょうがない。このことについても、のちほど後述する。見返りを求める遺伝子の話は非常に複雑なため、一度に説明することはできない。

 溺れかかっている人間が野生のイルカに助けられたという話をよくきく。少なくともその一つには確実な証拠がある。これは、群れの溺れかけているメンバーを救うための規則の誤用だと考えられる。この規則における、群れの溺れかけているメンバーの定義は、次のようなものであるにちがいない。「水面近くで息ができずにもがきまわっている細長い物体」。


 多くの種では、母親は父親より自分の子を確信できる。母親は、目に見え、触れることのできる卵や子どもを産む。彼女には自分の遺伝子の持ち主を確実に知るチャンスがあるのだ。あわれな父親ははるかにだまされやすい。だから、父親は母親ほど育児に熱をいれないのだと考えられる。

なるほど、確かに。この件についてはまたあとで書く事があるのでその時でもいいか。

第七章、家族計画では、全ての動物が、個体数を増えすぎないように自動的に調整する遺伝子を持っているという話である。どこかの宗教のいうように、子供を自然なやり方で産むか産まないか決めていたら、この地球はあっというまに人間で埋め尽くされて、飢餓によってみんな死んでしまうだろう。それと同じ事を動物は本能レベルでやっているという。
たとえば
 個体群があまり大きくなると、なわばりをもてない個体が出来、彼らは繁殖できないことになろう。ウィン=エドワーズによれば、なわばりの獲得は繁殖への切符あるいは許可証をてにいれるようなものである。成立しうるなわばりの数には限りがあるので、いわば繁殖許可証の発行数が限られているようなものだ。

しかしこの説は正しくないらしい。というよりも、証拠がない。

ここで新説が出る。

 子をたくさん生みすぎる個体がふりをこうむるのは、個体群全体がそのために絶滅してしまうからではなく、端的に彼らのこのうち生き残れるものの数が少ないからなのである。

たとえば鳥が、たくさん産めるからといって5個も6個も卵を産んだとしても、それを育てるために必要な量が増えて、結果的に食べさせてやる事ができなくて全員死んでしまうかもしれない。だったら初めから、3個か4個の卵しか産まなければ、エサもやれて結果的に生き延びる数は多くなる。

間引き、というような行為である。

それが今の人間の文明ではおかしくなってきていると作者は言う。たとえば日本でも、経済的に問題があって、とうてい育てられそうになくても、国家に託すという選択肢が出来てしまう。産んで産んで、それで赤ちゃんポストなどに捨ててしまえば、育てるという面倒な行為をしなくても、自分の遺伝子を大量にばらまく事が出来る。

 自分でやしなえる以上の子どもをかかえている人々は、たぶんほとんどの場合無知のゆえにそうしているのであり、彼らが意識的に悪用をはかっているのだと非難するわけにはいかない。ただし、彼らが多数の子を作るよう意図的にけしかけている指導者や強力な組織については、その嫌疑を解くわけにはいかないと私には思われる。

日本みたいにどんどんうめ、なんて言われたって、経済的に厳しいのだから無理にきまっているんだ。本当に産ませたかったら、補助金を出すしかない。

だいたい年金を下の世代が支えなきゃいけないような、そんなわけのわからない破綻しか見えない年金制度にしたのがおかしいのだが。
七章終り

と、ここまでで13章立ての本書の半分である。

上で書き忘れた事
動物、昆虫の利己的行動の例

たとえばカマキリの雌が雄を食べるのは、単純にこれからの出産にそなえて栄養の確保のためと、そして性 行為の活発化のためである。

昆虫の場合、頭が無くなっても性行動に支障がないらしい、むしろ活発になるとか、恐ろしい奴らだな本当に。

南極の皇帝ペンギンの場合
ペンギンたちは、アザラシに食べられる恐れがあるため、水際にたって飛びこむのをためらっている。もし仮に誰かが飛び込めば、アザラシがいるかいないかわかるが、誰もその役をやりたくないのは当然なので、全員がひたすら待っている。そして、時々押し合ってだれかを水中に落とそうとする。

同じ立場だったら人間だって同じ事をするだろうな。仮にそれをしたやつを非難するとしても、はたして本当に非難するのは正しいのだろうか、というあれ。

それからこれも、補足なのだが、遺伝子という見方からすると、子供を殺すのも、産まないように制限するのも、全ては最適化ゆえだ、というような結論になった。

今の日本を見ると、中\絶という事があまりにも多い。実際に生まれてくる子供のほとんど3倍ぐらいの数の子供が、中絶によって消えていく。これも一言でいえば、増えすぎないような調整にすぎない、という事になるのだがどうにもやるせない話である。

実際に中\絶しなかったらとんでもねー事になるのはわかるのだが・・・。

というか他の動物は本能的にやっている、産児制限を何故人間は出来ないのか、なんて考えてみたけれども、どう考えても「意識」があるからだろうなぁ。あえてSEXをしない、産まない、という選択肢を選ぶことのできるのが人間ならば、その逆、無理でも孕む、というのが出来るのもまた人間だということか。

さて、ここからまた本書の続きの要約作業を始める。8章、世代間の争い。
ここでは母親は特定の子どもをひいきするのではないか、家族の中にすら利己主義やごまかしがあるのか、というような事についての話が語られる。

例1
 もし母親が、甲乙いずれか一方の子供の命を救うしかなく、救助を受けなかった子供は、死ぬ他ないという二者択一をせまられたとすると、彼女は年上の子供の方を救おうとするはずなのだ。

これは今まで育ててきた労力を幼い子供と年上の子どもとで比較して、投資額の大きい年上の子どもを救うだろうという計算である。幼い方を救った場合、年上の子と同じ年齢に育て上げるためにまた貴重な資源を投資せねばならなくなるから。

また問題が、死に直結するものでない場合は、幼い子どもの方に比重がいきやすい。なぜならば年上の子供の方がなんとかなる可能性が高いからだ。

ここからの話は面倒くさいので簡単に書く。母親は基本的に資源を手に入れた場合、子供に渡した方が貢献度が高くなる。それは子供が無力であり、たとえばチョコひとつあたりのエネルギーをとっても、重要度が母親と子供では段違いなのである。
一つのチョコレートで母親が3の栄養を受け取るところを子供は10の栄養度を受け取るようなものだ。

子供たちの中で、ひ弱な、小さな個体がいた時の話。

育ち損ねの子供自身は最後まで努力するように思うかもしれない。

 育ち損ねた子供の余命が、衰弱によって短くなり、親による保護投資が彼に与える利益が、同量の投資によって他の子供たちの獲得しうる潜在的利益の二分の一より小さくなってしまうなら、彼は自ら名誉ある死を選ぶべきなのである。

こういった命令を与える遺伝子は遺伝子プール内での生存率は高い。なぜならこの戦略をとらない遺伝子に比べて、この遺伝子ははるかに生き延びる確率が高いからである。彼の死によって救われる兄弟の中には、彼の遺伝子が50%は入っており、自分が死ぬことによってほとんど自分と同じ量か、それ以上の遺伝子を救う事が出来るのである。

 育ち損ねた子供の生涯には、回復不可能となる時点が、あるにちがいないのだ。この時点に達しないうちは彼は努力を続けるべきである。しかし、そこに達したら、彼はただちに努力を放棄せねばならない。そして、自分の体を、仲間や親たちに喰わせてしまった方がましなはずなのである。

9章。雄と雌の争い。

 きんしん そうかん(←クソ楽天ブログめ、わいせつな表現だと?)は、種間交雑と同様に、大きな遺伝的損失を生み出しやすい。

今まで何故きんしん そうかんがいけないのかよくわからなかったのだが、つまるところ致死性遺伝子というのをたいてい誰もが持っていて、もしそれとぴたりと結合するような遺伝子を交配相手が持っていた場合、子供は死にいたる病を持って生まれてくるという事になる。それが見ず知らずの相手とならば、自分と同じ致死性遺伝子を持っている可能性は低いが、きんしん者の場合だと、同じ遺伝子を持っているのだから、うまく致死性遺伝子が合わさってしまう可能性が高いということである。

そしてその場合、雌のほうがきんしん そうかんを厭がる傾向にある。なぜならば子どもを育てるのは主に母親なので、結局死んでしまうのならばその多大な損失を払うのは雌だからだ。

 父・娘間のきんしん そうかんのほうが母・息子間のインセンストより例が多く、兄・妹間のきんしん そうかんの頻度が両者の中間くらいになるのではなかろうか。

また、雌は妊娠期間というものがあり、その間子孫を残す事はできないが、雄の場合そうではない。いくらでも交尾できて、いくらでも妊娠させることができる。男に浮気がつきものなのも、これがあるからだろう。

11章、ミーム

本書の中で一番面白くて、興奮したのがこの章である。遺伝子とは何だろうか、自己複製子である、では、自己複製子とはなんだろうか、複製を作る過程、ものである。
つまりそれは人間が伝えてきた文化も、自己複製子、それこそがミームであるという。
たとえば神という観念は、もう長いこと受け継がれてきた強い自己複製であるといえる。本書では生存価といっている。現実の不公平は神によってただされる。紙が救ってくださる、というような医者の使う偽薬と同じで、プラシーボ的なもので人々には効き目がある
世代から世代へと神をコピーしていく理由の一つである。そしてそこでは、ミームという形だけで神は実在するのである。

こっからはただの感想だけれども、何故神という観念がここまでずっと受け継がれてきたかというと、人の意識が最初からそういうものを必要としていたという事なのじゃないかと。

ミームには暗い面もあれど、明るい面もある.
死後に残せるものの一つが、ミームだ。素晴らしい小説だったり音楽だったりを生み出したら、それはミームとなって人の頭の中に生きていくかもしれない。

もっとも、今となってはかなり無理がありそうだが。

 われわれは遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化されてきた。しかしわれわれには、これらの創造者にはむかう力がある。この地上で唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである。

未来を知覚できるのは人間だけだ。何千年後かにやってくる氷河期を見越して活動できるのも人間だけだし、何十万何億年後にやってくる太陽の死にそなえて何かできるかもしれないのも、人間だけである。遺伝子を残せと性に没頭させようとする本能に抵抗できるのも人間だけである。そう考えてみると、確かに人間が特別な存在なのだと改めて理解する事が出来る。

12章、気のいいやつが一番になる、ではおもにゲーム理論からの、戦略としての生き方、を書いている。

たとえば、雄と雌の集団があったとして、ほとんどの雌と雄は、つれそって一緒に子育てをする、ような戦略をとっていたとする。その集団の中に、子供を作るだけ作って、あとはほかの雌のところにいってまた子どもを作って逃げるという戦略をもった雄が混ざっていたとする。当然その雄の遺伝子が一番繁栄することになる。そうするとその集団には、生ませるだけ生ませて、逃げるという遺伝子を持った雄が蔓延することになる。だが、その遺伝子だらけになった場合、雌は対抗措置としてそういった雄は相手にしないという戦略を取るようになる。そうするとその戦略を取り続ける雄の繁栄は終わり、地道に子育てを手伝う雄の遺伝子が繁栄することになる。

戦略の話は複雑で、書くのが大変なためこれでひとまず終了で・・・。

 動物の行動は、それらの遺伝子がその行動をおこなっている当の動物の体の内部にたまたまあってもなくても、その行動の「ための」遺伝子の生存を最大にする傾向を持つ。

良く意味がわからんが重要そうだから書いた。どこがわからないか書いておこう。それらの遺伝子がその行動をおこなっているっていうのがまずなんなのかわからないし、動物の体の内部ってのが何を意味しているのかわからないし、行動のための遺伝子の生存という言葉の意味がわからない。

結局何にもわかんえーーー

これは本書に書いてあったかどうかわからないが、アリの話を思い出した。
アリはしばしば川を渡る時に、自分の体を犠牲にして、仲間のために橋をかけるという。これは皇帝ペンギンの話とは真逆ではるが、利他的な行動といえるだろうか。
アリの一匹一匹っていうのは、全部女王アリから生まれてきたのであって、近縁度っていうのは恐ろしく高いはずである。というか、あれはもう一匹一匹の遺伝子というか、種類としての遺伝子と考えた方がいい。この意見は13章、遺伝子の長い腕の意見である。
たとえばオオカミが群れを作るように、ハチが巣を作るように、ハチは一匹一匹が遺伝子の体現者なのではなくて、巣全体が、群れ全体が一個の遺伝子なのだという考え方。
おそらくアリもこれに近いのではないか。つまり自分が死ぬことによって、仲間が渡れるというよりも、自分たちの体の一部を犠牲にして、自分の本体が生き延びる、という表現が正しい。つまりアリが自分を犠牲にして橋をかけるのは利己的な行動といえるだろう。

何故遺伝子は結合して、ガタガタと動くロボットを作るのか?
何故無駄にでかい、エネルギーを大量に摂取しなければいきていけないクジラや、ゾウなどのでかい生物を形作るのか?

 小さな生物のための道がすべて満杯であっても、大型の生物にとって好都合な生活の道は残っているからだ。たとえば大型の生物は小型の生物を食べることができるし、彼らに食べっられるのを避けることができる。

最後に、利己的な遺伝子についての要約を書いたものをさらに要約する。

あらゆる生命の根本的な単位であり原動力は自己複製子である。自己複製子とは、宇宙にあるどんなものであれ、それからそのコピーがつくられるもののことだ。自己複製子が存在するようになれば、それは自らの複製を果てしなくつくりだしていくことができる。だが、どんな複製子も完全ではない。自己複製子を作る過程で、いくつかの変異を得ることになる。それはときには全くダメなものとして消える。だが新しく巧妙なやり方を獲得した変異があらわれる。より効率よく自己複製するものだ。当然後に残るのはその複製子である。
今日においてさえ、ひとつの遺伝子の表現型効果が必ずしもすべて、それが位置する個体の体の内部に限定されていない。遺伝子は個体の体壁をとおりぬけて 、外側の世界にある対象を操作する。遺伝子の長い腕にはっきりした境界はない。あらゆる世界には、遠くあるいは近く、遺伝子と表現系効果をつなぐ因果の矢が縦横にいりみだれている。

 進化とは、たえまない上昇ではなくて、むしろ安定した水準から安定した水準への不連続な前進のくりかえしであるらしい。

総括
いやはや恐ろしいほど長くなってしまった。恐ろしく疲れた。何でこんなことやってんだ。いやしかしこれぐらいの長さになるのは読んでいた時にすでに予測していたことだ。さらにもっと詳しく要約し、考えを逐一書いていったら五万文字を超える事は容易に想像できる。ほとんど考えを書いてこなかったように思うが、およそ反論を許さないほど論理的であり、文章がそのまま完成しているのでもうこれだけでいいような気もするのである。語るとすれば、中絶の話や信仰の話など、ちょっと横道にそれたような話しかできない。およそ今まで読んだ本の中でこれほど奇妙な充実感を与えてくれた本はほかにないであろう。またここに書かれていることがあくまでも、遺伝子からみた考えであって、全てを絶望するような材料にする必要は全くないのである。本書でも書かれていたように、遺伝子に反逆できる人間の持つ意識の賜物ゆえ。

内容としては遺伝子の長い腕が、しょうしょうそこまでの話と比べてわかりづらかっただけで、あとは恐ろしいほど簡単に説明されている。10章のゲーム理論などは、絶対に数学的な説明が必要になってくると思ったのだが(ゲーム理論とは数学であると考えていいのではないか、よくしらないが)文字だけでよく説明したものだと感心しきり。全く書き足りないのだがさすがに疲れた・・・。もうタイピングはいいや・・・。