基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

水滸伝 八/北方謙三

第八巻。

感想 ネタバレ有

なんかだんだん書く量が少なくなってきたような・・・!?

この巻では解珍、解宝の親子が出てくる。ジャイアントロボの中で、ほんの数秒しか出てこないとはいえその圧倒的な存在感をしかと目に焼き付けたものだが、まさか親子という設定だったとはしらなかった。ジャイアントロボだとどうみても兄弟だったからな。

主に、祝家荘vs梁山泊の戦いが繰り広げられる。相変わらずどの男も格好いい。ただそれが不安でもある。格好いいのは、当然いいのだが、そう何度も強調されるとさすがに飽きるのではないかと。確かに変わらないことというのはそれだけで魅力的だ。世の中、何もかも変わらざるを得ないものばかりだ。変わらないものなんて、ひとつとしてないといっていい。

その中で変わらない作風で最初から最後まで一貫して書ききる、というのは素晴らしい。いや、それはシリーズを始めたものならば誰もがそうするべきと考えるだろう。シリーズの途中で作風が変わったり、主張する事が変わったりしたら興ざめである。そういう事ではなくて、今は確かにこんなに楽しいけれど、次第にまたその展開かよ、と鼻で笑うようになってしまうのではないか?というのが今唯一の心配なのだ。

まぁそんな心配をしている暇があったら一行でも多く読め、というのが正解だろうな。ただこのシリーズを読んでいる途中で、そんな事も考えたという記録を残したかっただけだ。

読み終わった時には笑い飛ばせるのを願っている。

しかしこの作品、くどいほど同じ思想を強調する。死ねば土になるだけ。死んでも、誰かに覚えてもらえればそれでいい。などなど。

 「これは、鄭天寿の命だ。私が本営に戻った時、おまえの熱はもう下がり始めていた。だから、この蔓草が役に立つ事はなかった。これが、鄭天寿の命だとしたら、情けないほどのどうでもいい命でもある。しかし、ひとりの、この世でただひとりの人間にとっては、無上に大切な命だ」

病気の子供のために薬草を採りに崖にのぼり死ぬってこれなんてありがちな展開?ただこうやって楊令が子どもながらに、人の命を背負って生きていく自分、というものを明確に意識しながら生きていくというのは非情だけれども、これから先人の上に立つものとして生きていく上で重要なのだなと思う。楊令伝という続編があるのを知っているから考えることではあるが。

 心の底が、ふるえていた。
 いままで、こんなふうな感じを味わったことが、李応にはない。
 これが、生きているということではないのか。危険を求めながら、しかし生きている。命のかぎり生きている。そういうことなのではないのか。

この男、李応のことだが、描写は少なめだがその存在感が異常に強い。鮮烈なイメージを植え付けていく男だ。

ところでこの8巻で、ついに馬柱がむごたらしく殺されるわけだが、李富の対応があまりにも不自然すぎる。今までの冷静沈着な描写はいったいなんだったのかと思うほど簡単に物事を梁山泊のせいにしすぎる。女に没頭しすぎるからこうなる、というような解が与えられているのかもしれないが、それにしてもここだけは納得いかねぇ。いくらなんでも無条件に、梁山泊のせいだと信じるのはおかしいのではないだろうか。さらに、自分の事は梁山泊側には全くバレていないはずだ、とどの口がそう言わせるのだろうか。いつだって全ての条件を考えていくのがやり方だったはずなのに、何故そこだけ盲目的に自分の事は知られていないと信じているのか。

ここだけは後々まで引きずる事になりきがする。あるいはこれは、李富が梁山泊側に寝返るフラグだろうか?バレないはずがないとおもうのだが。

 「死ねば土。そう思い定めている。どこからでもいいぞ、来い」

やばかっこいい。さすが李応だぜ。きっと壮絶な死に方を決めてくれると信じている。最初はキャラに期待していたが、最近はもう死に方を求めるようになってきた。どうせみな死ぬのだ、どうせなら、壮絶に死ぬ方がいいだろう。でもよく考えたら、どうせみんな死ぬなんてのは自分らにも当てはまるわけで、よくよく考えてみれば同じ死ぬなら派手に死んだ方がいいというのは全くもってその通りだというきがする。座右の銘にでもしようか「どうせ死ぬなら派手な方がいい」
なんか頭のイカれたジジイになりそうだな。

 「歩きませんか、宋江殿。この祝家荘の中を。何人もが死にました。ひとりで歩くには、肩が重たすぎます」
 「そうだな」
 宋江が笑った。
 月が出ている。

呉用もかっくいいなぁ。闘わないのだが、それ故に死を受け入れる度量を持っているというべきか。同じ事は宋江にも言える。この二人が揃うとよくわからん化学反応が起こりそうだ。