基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

水滸伝 十一/北方謙三


ネタバレ有

衝撃の第十一巻・・・!最初はこの巻も大人しめだなーなんて思いながら読んでいたのだが、すべては最期までの布石だったとは・・・。

三万で宋と対決すべきだ、という晁蓋と、十万まで待つべき、という考えの宋江。どちらも正しいともいえるこの選択。お互いに、ひかない相手だと知っていて、ひかない相手だからこそ信頼できる間柄というところか。


 仕方がないことだった。晁蓋も自分も、考えを大きく変えることはできない。どこまで歩み寄れるか、ということに尽きるのだ。
 友ではないか。
 すべてを語り合い、ともに生き抜いてきた、無二の友ではないか。
 宋江は、そう考え続けた。


ここで自分の考えを引っ込めるような人間なら、そもそも二人の首領という特殊な立場にたっていない。

しかしこの晁蓋が三万で行くべき、期を熟した、と肌で感じているところが正しさをうかがわせる。結末は梁山泊負けという事を知っているだけに、このタイミングで挙兵していたらあるいは・・・と歴史のIfを想像してしまうのも仕方のないことかもしれない。

すでにフィクションとして存在しているものの、さらにIfというのも面白い話だが。

この巻でついに晁蓋が死亡する。全19巻という事と、首領が二人、という事を考えると半分だから展開的に首領一人殺しておこうか、というような考え方もできるが

その代りといってはなんだが、面白い人間関係の対立もだんだん出てきた。人数が増える事によって描写されない人間の数が圧倒的に増えてきたが、その分一人一人の密度が濃い。人と人が関係しあって、さらにそれが力になっていくのだと読んでいて実感できる。やはり最初に感じたように、水滸伝は人間関係の物語でもある。対立や主従関係、友譲や命の恩人、兄貴と弟分、さまざまな関係性がここには書かれている。杜興のエピソードも面白い。

しかしやはりなんといってもここで特筆すべきは晁蓋の死ぬ場面であろう。正直、突然の急展開に読んでいて驚きを隠せなかった。あまりにもあっさりと、突然に死ぬのでまるで現実の死のようだった。いや、フラグというようなものはもちろん大量にあったのだが、作中の人物が何度も語るように、晁蓋が死ぬところがまるで想像できなかった、ということに尽きる。この男がそんなにあっさり死ぬように思えない。宋江ならまだしも。

それにこの描写力・・・。死んだことが無いから真に迫っているとか、現実っぽいなんて口が裂けても言えないが、最高レベルで、フィクションとして面白い。エンターテイメントとして面白い。なんだ、これは、と読みながら考える。リアルとかリアルじゃないとか、現実的だとか非現実的だとか、そういう事じゃなくてただただ、「正しい」かもしくは「アリだな」という感覚を持った。これ以外にない、という感覚か。ものすごい説明が難しい。感覚を文章にするのがこんなにも難しいとは。バカボン風にいえばこれでいいのだ、か。
技巧をこらしたシーンではない。ジェイムズティプトリージュニアがたった一つの冴えたやり方や、輝くもの天より堕ちなどで書いたような、美しい死のシーンではない。物語に吸い込まれるようなそんな描写だ!わけわからん


 なにかが、ふわりと自分に寄り添ってくるのを感じた。やさしげで、触れると心地良さそうで、包み込まれるとかぎりなく安らかになれる。しかし、冷たい。
 この冷たさが、死なのか。
 そう思った瞬間、憤怒にも似た思いが晁蓋を包み込んだ。
 立って、両断してやる。
 「去ねっ」
 立とうとした。やわらかなものは、しっかりと晁蓋を包み込んでいた。


うーむ。凄まじい男だな、晁蓋。死を自覚した瞬間に、死を両断しようとするとは。そんな男今までどこにもいなかった。何気ない描写だが、立って、両断してやるってのは滅茶苦茶すげえ。何故そんな表現が思いつくのか。漢だなぁ。漢だよ。死に包まれていると知って、今までの人生疲れたな・・・死ぬのもいいかな・・・なんて、全く思いもしないでぶっ殺してやる! と奮起できる人間なのか。すさまじい。この一言に尽きる。読み終わった瞬間に意味がわからなくなって十二巻を取りに走ったのはいい思い出だ。今までで一番びっくりして、今までで一番感情を突き動かされた感がある。

毒に身体を犯されて、物を考えられるのに死ぬのか・・・?と自分が死ぬかもしれないと考えるまでの過程がほんとに凄い。