基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

水滸伝 十四/北方謙三

感想 ネタバレ有

大決戦の前の準備という雰囲気が強い十四巻。十三巻で、どの巻にも一か所は鳥肌が立つ場面がある!と書いたばかりだが特に鳥肌が立つような場面はなかった。というか良く考えたらこれまでも鳥肌が立たない巻はあったように思う。その場のノリだけで書いてしまうのは良くない事だな

毎巻、一番活躍する人間の絵が一番最初に書かれているのだが、今回書かれていたのは張清だった。 あれ?こいつ死んでね・・・?と思ったら死んでいたのは張青だった。似たような名前のやつが多すぎるな。ていうかこれ英語表記になるとどうなるんだろう。

この張清、活躍どころかほとんど出てこなかった。というかこいつ初登場だっけ?張を名に持つキャラクターが増えすぎて意味がわからなくなってきた。

どうもこの巻は本当に大したことがないようで特に活躍するような人間もいないから張清を書いたということなのだろうか。でも樊瑞や燕順がかわいそうだろう、それは。樊瑞なんて、ものすごい暗殺という役割を与えられていながら相手にたった4名の損害しか与えられずに死んでいくとは。

しかしその死の描写は本当にあっさりとしていたな。死んだ事に次の巻の戦死者名簿を見るまで気がつかなかったぐらいだ。


 また夜が来た。はらわたは、毀れ続けている。はらり、となにかが落ちた。はらわたからの音が、大きくはっきりと聞えた。
 ここだろう、と樊瑞は思った。


まさかここで死んでいたとは。いや、確かに言われてみればわかるのだがそれにしても・・・。そのあとの描写が全くないわけだし。ひょっとしたら暗殺に成功するかもしれないと思わせるぐらい樊瑞の凄さが書かれていたからそれだけにこの結果は可哀そうともいえる。ただ暗殺を生業とした男がこうやって静かに死んでいくというのもまた面白いかなという気はする。


 「わからんな。数え切れないほど、死んでいく人間を見てきた。死ぬとはどういうことなのかと、考え続けてもきた。医者なりに、結論を出しているような気はする。しかし、どこか違うとも思ってしまうのだな」
 「なくなるよ、安道全。おまえも俺も、俺のまわりの全部も。そして、それが心地よいような気もしている」


北方謙三が書こうとしているのはこの伝えようのない感覚なのだな、という事は何度となく書かれているから、わかる。言葉で伝えられないものを必死に伝えようとしているのだろう。それが「死」だったり「志」だったりするわけか。それを一つの死によって伝えようとするんじゃなくて、怒涛の死亡ラッシュで伝えようとしてくるのが面白いといえば面白いし、またそれが微妙な点でもあるのかもしれない。あまりにも命が安すぎる。命は確かに万人が等価だが、それは百万円持っている、という意味での等価でしかなくて、本当の価値は百万円持っている事よりも、それをどう使うかでしかない。百万円ギャンブルに使って全部無くす人間もいれば、元手に株をして増やす人間もいる。逆もまたしかり。そういった命の使い方、みたいな事をこの108人を使って試しているのだろうか。



張横と張平の描写も大量にあったし、張横と張清の間に何か関係性があったっけ・・・?



張青の死にざまはもっと評価されてもいいと思うのだが。史文恭を止めようとしたけど失敗したけれども、一太刀喰らわせたわけだし。

いろいろなところで語られながらも、決して描写されない高俅が地味に怖いな。RPGだったら真のボスといって現れてきそうなところだが。

フハハ!実は私こそが蔡京を裏で操っていたのだ!お前らは宋を倒すのには童貫を倒さないとならないと思っているかもしれないがそんなことはないぞー!梁山泊よかかってこい!

梁山泊の勇気が宋を救うと信じて! 北方謙三先生の次回作にご期待ください。

聞煥章を読んでいて思ったのだが、一番最初に出てきた時は完璧超人といってもいいぐらいの凄さを見せつけたのに、その後はあまり凄さを見せつけていないような気がする。足も失ってしまったし・・・。もうちょっと大物っぷりをみせつけてくれてもいいものではないかと。うまくかけないのだが、特定の事をやらせたいがために出てきたキャラクターという感じを受ける。そのせいかその特定の事以外でのこいつがやけにいらない人間とかしているような・・・。

まぁそれはおいといて。地味に染み入るシーン。


 「もう泣くな、平。おまえがなにをやろうと、私はおまえの父だ」

確かにいい父かもしれないが、しかしあまりにも言葉数が少なすぎる。言葉で言わないと何も伝わらないだろうが。とは思うが犬なんかも言葉はわからなくても、家族の接し方で誰が家族の中で一番偉いか見極めてリーダーと認める、というし言葉よりも行動で示せばいいという考え方もあるのかもしれない。ただ、旅に出て行く時に私は行くぞ、とだけ言い残していくのはどうなんだろうか。どこで、何を、目的を、期間は、せめてそれだけ言い残していけばいいんじゃないだろうか。

ただ、やはりこういう無条件の信頼というのは親として必要なものであるのかもしれないと思う。しかし最近のニュースなんかを見ていると、モンスターペアレントみたいな息子は何も悪くない!と癇癪気味に叫ぶだけの親もいるが、あれはあれで息子に絶対の信頼をおいている、という意味では間違っていないのかもしれない。

親が子を愛するのは、顔が整っているからとか性格がいいからじゃなくて自分の子供だから愛する、っていうのは世界を肯定する哲学でもいっていたことだがまさにその通りなのだろう。信じるってのは確かに素晴らしい事かも知れんが、モンスターペアレントとの境目がわかりづらいなぁ。ゴールデンスランバーに出てきたオヤジだって一歩間違えればただのバカだぜ。


 「上だけ裸なら、まだわかる。なにも着ていなかったとはな。自分の姿を想像してみろ、史進。棒と一緒に、玉まで振り回しくさって。わしは話を聞いた時、これがわれらの隊長かと、恥ずかしさで身が縮んだぞ」

思えば水滸伝で初めて笑ったかも知れぬ。ただこれから始まる今までで一番でかくて長い戦いの事を思えば、これから先ずっと息が詰まる展開になるだろうから、ここらでちょっと息を抜かそうという意図があったとしてもうなずける話だ。もしそういう意図のもとでこういう話を挿入したのなら見事に策にはまっていることになる。

地味に大砲バカがいい味だしてた。というか、火薬と大砲を合わせる、という概念が組み合わさったところはなにか人類が初めて火を起こした時のような感動があるな。発明というにふさわしい。これが完成した時の場面を思い浮かべると顔がにやけてくるような気がする。


 「俺は、錦毛虎燕順だ。臆病者の手並みは、よく見せて貰った」


このかっこいい名乗り上げの三行後に体中矢だらけにされて死んでるんだから笑ったぜ。そんなことするから矢だらけになって死ぬんだよ。