基本読書

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楊令伝 二 辺烽の章/北方謙三

感想 ネタバレ有

まだ二巻である。ところでこの表紙のお方はどなたですかね。
梁山泊の高年齢化がすさまじいのう。このままいつのまにか老人小説になっていそうだ、っていいすぎだけど。

何人か年齢が書かれていた。ちょっと書いてみよう。
呼延灼が四十九ぐらい、童貫が六十、史進が三十八、燕青が四十、張清が三十八、李俊が四十五。

みんな歳をとったもんだなぁ・・・。童貫なんて六十っすか。とっとと定年退職しろよ。いったいいつまで指揮をとるつもりなんだろうか。まぁこんなじじいが存在したら死ぬまで闘いをやめなさそうだけどな。はた迷惑なじじいもいたもんだ。史進が思いのほか若かった。あと十年、戦えるか闘えないかというところだろうな。童貫もあと十年はさすがにきついだろう。五年が限度ではないか、と勝手に思っている。五年以内に、決着はつくのではないだろうか。

楊令伝、ほとんど童貫vs楊令の構図になっているように思う。ってことは童貫が死んでまでだらだらと続くという事はないだろう。なぜなら童貫には子がいない。楊令のように続く事はない。

本当の戦いはまだ、始まっていない。今はまだひたすら準備をしているところだ。何をするにも、大事なのは準備だ。全ては準備が必要だ。というのをひたすら書いていたように思う。方臘もそういっていたしな。

アサシンクリードだって、暗殺するより調査する時間の方が長いしな。

それにしても、である。方臘の考えが思いのほかしっかりとしている事に驚いた。一巻の時点じゃたいしたことなさそうだったのに。それから一巻であれほど皆に嫌われている、と地の文で書かれ続けていたのに一転して、呉用はみんなの憎まれながらも間違ったことはやっていない、と認められるようになってきた、でも嫌われているのはそのままだが。これから先どうなるのか全く予測が出来ない。呉用は死ぬのか、死なないのか。方臘の反乱も全然ダメダメ、からひょっとしたらっていうかこれ結構いい線まで行くんじゃね?というレベルまで引きあ
がってきた。まったく、何一つ予想がつかない。

 「王になってみたいという思いは、めしを食いたいという思いに似ている。めしは、一日に三度食らう。一生に一度、食らってみたいというめしがあっても、悪くあるまい」

王になってみたいなんて思った事ないが(そりゃそうだ)、似たような感覚を持っている。なんとなくわかる、というぐらいだが。

楊令の考え方が面白い。


 「新しい国家を夢みて、闘うしかない、と俺は思い定めました。その間、俺は痛いほど生きていられると。ほんとうに新しい国家ができてしまったら、俺はそれを、後ろから来たやつらに投げ渡してやりますよ。もう、俺の夢ではなくなっているのですから」


あまり書かれない英雄のその後、というものがある。革命家にとって必要なものが何かはわからないが、それが国を運営していくのに必要ないものであるのは、確かであるように思う。革命に成功した後、政治に携わってうまくいった例というのをあまり聞かない、というか全く聞いた事が無い。そりゃ探せばあるだろうが。失敗した例ならば、日本の西郷、キューバ革命カストロゲバラなどがいる。そういやグレンラガンは英雄のその後、を書いた作品としても面白かったなぁ。あれも革命の英雄として扱われながらも、牢に入れられたり処刑されそうになったり、結構悲惨な目にあっている。

ただ、この水滸伝時代じゃ革命をしたらそのトップに立っている人間はまず間違いなく国を作るという段階になっても、トップで居続けるというのが当然、という感覚があると思う。それどころかどいつもこいつも革命に成功したら自分が帝になるのが当然、という態度でもある。
そんな中で、最初から退く態度を見せている楊令の凄さ、というものを感じた。

呉用が命からがら梁山泊から逃げだす時のエピソードで、たった一文だが妙にひきつけるものがあった。


 取調べなどなく、一度名を訊かれただけだった。晁江、と名乗った。


晁蓋宋江と本当に親しくしていた呉用だからこそ泣ける。阮小五も死んでしまい、そういえばもうずいぶん長いこと呉用は一人だったな。本当にみんなに嫌われているようで誰とも親しくしている描写がない。明らかに梁山泊の中で特異だ。


 「そりゃ、死に方からいえば、摸着天の死に方は、勇敢そのものだった。だがな、梁山泊軍の古い兵があいつのことを忘れないのは、きちんと生きたからだ。やるべきことを、きちんとやった。摸着天の訓練を受けた兵も、まだ相当残っている。ああいう死に方でなかったとしても、その兵たちは、摸着天杜遷を忘れねえさ」


死に方をといているわけではない。生き方か。生き方に焦点をあてた話をこれまでしてこなかったように思う。今までの水滸伝は、いかに死ぬか、という話だった。と思う。ここでは生き方をといている。

Amazonのレビューを読んでいてなるほど、というものがあった。水滸伝は死に方を書いた小説で、楊令伝は生き方を書いていく小説ではないだろうか、というものだ。自分も全くその通りだと思う。