基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

虚人たち/筒井康隆

あらすじ


今のところまだ何でもない彼は何もしていない

感想 ネタバレ有

久しぶりに筒井康隆でも。ものすごいツボにハマった作家というのが何人かいて、そういった人達の本は、ハマった故に読むのをためらってしまう。たとえば神林長平でも、恐らく日本のSF作家の中で今のところ一番好きな作家であるが、著作を半分読んでいるかどうか怪しい。もうかなり歳をとっている事もあるし、これから先、いったい何作品書けるかどうかもわからない。そんな中どんどん読んでいったら読む者が無くなってしまうじゃないか、という理屈。

筒井康隆も同じで、面白くてしょうがないのだがどうも読む気がしない。読めば読むほど面白いものが減っていってしまう。ってそんな事いってたら何にも読めなくなってしまうような気がしなくもない。それからこれはある程度作品数があるからこそできることでもある。飛浩隆レベルに寡作になってしまうと、これはもうとっておこうなんていう思考が出来るはずもなくただただ渇きがあるのみである。ゆえに出た瞬間に読む。

どういうタイミングで読まずにとってある作品を崩していくのかというと、それはもうフィーリングである。 突然ハッ 虚人たちを読もう、と思い立って読むのである。特にこの虚人たち、虚航船団と似たようなものだろうと勝手に分類していたので期待もひとしおであった。いつか読もういつか読もうと長年温めていた作品なのだ。

虚人たち、面白いか? と訊かれたら答えに屈する。読んでみろ、という他ない。凄かったか? と訊かれたら有無を言わさず凄かったと答えるだろう。読んでいて小説じゃなくて論文を読んでいるようだと考えながら、いやでもこれは小説だろうと思い返していやでもと自分の中で否定と肯定がせめぎ合っていた。
ストーリーに当然必要である感情の起伏みたいなものが存在しない。場面の盛り上がりも存在しない。何故なら登場人物は最初から自分がそういった世界のキャラクターであることを割り切っているからであって、いうならばこれは自分の夢の中で、自分の夢なのだ、と自覚している事に等しい。夢ならば、親が死のうが金がなくなろうが仕事をクビになろうが、関係無い。だから盛り上がりもない。もちろん本人が楽しもうという気持ちがあるならば何だって盛り上がるものだがこの主人公にはそれもない。そんなものがはたして小説といえるのかどうか。

ただキャラクターにそういう感情の起伏が無い代わりに、自分が一方的に感情を起伏させられた感がある。はたしてこの意味のわからない小説はいったいどうなるのか、ちゃんとした終わりを迎えられるのか、とよくわからない心配だが、それでも感情の起伏という意味ではそれ程違っていない。ちゃんとした終わりを迎える事が出来るのか心配でハラハラドキドキした、というのを考えればサスペンスといえなくもない。

最初、設定が物語の中の登場人物だと自覚したキャラクターが出てくるという事を聞いて、ああなるほど、それでまたいつものドタバタで物語をぶっ壊そうとするのだろか、という気持ちで読み始めたのだがまるっきり当てが外れた。

てっきり自分が虚構の存在だと気づいてしまった主人公が苦悩するような小説だと思っていたのに、書かれていたのは説明不可能な話だった。

自分が物語の登場人物だと自覚する話は最近の映画にもあったし、ゲームでもForestというやつはそうだったがこの虚人たちのような形式は、多分筒井康隆がはじめてだろう。というか誰もこんなことをやろうとは思わないだろう。

面白くないことの理由の一つとして、ストーリーに起伏というものが全くないという事が一つで、あと一つは必要以上の持ってまわった言い回しの連続である。読点が一切なく(たぶんこれは思考の垂れ流しに本来読点などないからだろうか)恐らく時間を一切省略しないで、思考の流れを最初からありのまま書いているので必要以上に余計な描写が増えているのだろう。よくライトノベルが持ってまわった言い回しをしていてかっこいいとでも思っているのかという批評があるけれど、それを最初から最後までやっているわけである。ただ、読点を省略するだけじゃなく。←これも本当は思考には存在しないんじゃないかと思ったが、そんなこといったら思考に文字を使うのかお前は? という疑問に行きあたってしまってしかしそんなこといったら何にもならないじゃないかという疑問も当然のことながらこれだから概念的なものは難しいっていうか概念的っていう意味も知らずに勝手に書きやがってあほか みたいに、今のは思考をほとんど省略せずに書き続けていったものだが、(シュルレアリスムとは何か、で読んだがこれは自動記述というらしい、続けると狂うらしい、こええ)永遠に思考を続けようと思えば続けられる訳で、。←これもいらないんじゃないかと思ったがやはりどうでもいいことだろう。


人生はゲームだ、小説だ、とよくいうけれども実際問題そんなこと無くて、ゲームならや小説なら〜あれから三年がたった〜なんてかっ飛ばされるようなところでも現実じゃどんなにめんどくさくても三年ちゃんと過ごさなくちゃいけなくて、ゲームや小説じゃ省略されるような事でも本当の現実じゃ全部一つ一つ自分でやっていかなくちゃいけないのだという事を思い知らされた。人生はゲームなんかじゃないな。

虚航船団の時もそうだったのだが、改行が一切ない。虚航船団の時は確か何故改行が一切ないのだろうなんていうことを考えなかったように思う。考えていたとしても、もう忘れてしまった。だけれども虚人たちを読んでいてやっとわかった。というか正確にはわからされたか。ちょうど100ページのところから、約15ページにわたって空白の記述があった。これは意識を失った時間ということだが、それならば何の意味もなく15ページもの空白を作るはずがないと思い、そこで初めて気づいた。というか気づくのがあまりにも遅すぎたというべきか。この本にはひょっとして1ページごとに時間が設定されているのではないか、と思い、のちに30分程眠っていたようだ、という記述があったことから1ページ2分換算なのだろうと思い読み進めていた。 が、どうも途中から8分経過した、と書いているのにその間のページ数が約9ページあったことがあったりして、1ページ2分換算どころか、1ページごとに時間が設定されていたのもただの自分の思いすごしかと思ったものだが今さっき調べてみると原稿用紙1枚分が1ページとして書かれているらしい。なるほど、それならばずれるのもうなずける。そして意識が途切れない限り思考というのは続くわけだから何も起こっていない時ですら描写はありつづける。それを読むのが、地味につらかった。


 描写するに価しない時間などというものは人間が意識を持つ限りあり得ないしある時間的間隔を持った意識の空白さえその時間的間隔ゆえに意味を持つ筈ではないか。むしろ無意味なのは本人がすべてを眺めわたしたというわけでもない風景の細密描写による現像焼付引伸ばしでありその為に時間までがおそるべき長さに引きのばされてしまう事であろうと彼には思える。そのように入念な観察が風景に対して終始一貫なされるものではないし極端な場合の如く会話と会話の間隙ほんの数秒の間に周囲の山川草木を一挙にあげつらうなど甚だしい暴挙と言わねばらならんのではあるまいか。


こういった小説の技法批判というか、やり方そのものにケチをつけるための小説といった方がいいのかもしれない。たくさんこういった批評が書かれていたけれど、そんなこといったってどうしようもないというものがほとんどで記憶に残らなかった。ただ読んでいて面白いものではあった、たしかにたしかに、とうなずかざるを得ない。

  • 世界観の疑問

ところで、この世界の意味がよくわからなかったのだが、途中で三人称視点で描写されていると思われる男が出てきたりと、割と意味がわからない。一つの作品としてじゃなくて、色々な作品の世界が混ざっている世界と考えた方がいいのだろうか? それともあれは一種のクロスオーバーが起きていたと考えるのが正しいのだろうか。


 「かかわりあうことが厭なんだ。今死んだあの中年の給仕はながいながい苦難に満ちた人生の幕をそこでおろしたわけだけど彼がわざわざおれたちのテーブルに倒れ込んできて死んだのはおれたちの中に観客の姿を認めたからじゃなくて否応なしにおれたちに助演させようとしたんだぜ。もし関わり合っていればあの男の厖大な数の出来事を含んだながい旅路の果てに立ちあい臨終を見届けた二人の親子づれというのでそこに重要なあるいは象徴的な意味を持たされかねなかったんだ」

これとドンピシャのネタが絶望先生にあったなぁ。絶望した! ドラマに強制的に参加させられる社会に絶望した! みたいな感じで。これに対してオヤジ、しかし現実にはありえることだろうと言っているが何でオヤジ現実の事をそんなに知っているかのように話すのだろうか? ア・プリオリな概念として現実の事をほとんど承知していると書いていたような気がするが


 そもそも悲しみや苦しみを頒ちあうことはわれわれにはできないことなのだろうと彼は思う。だがそういう言葉が不自然でなく使用される以上現実の人間にはどうやらそういうことができるらしいと思い彼は現実の人間たちの虚構的な思いこみの強さやほとんど幻想的ともいえる想像力を羨む。


強烈な皮肉だよなぁ。違和感を感じたのは現実の人間とこの親父がそこまでかけ離れた存在かどうかというところだが、まぁ皮肉だと考えれば納得できる。どうにもこの作品内における現実の位置付がよくわからない。この物語のキャラクターが現実というのを意識しているのは確かだけれども、現実についていったいどういった思いを持っているのかがわからない。現実に行きたいのか、行きたくないのか、どこまで現実を認識しているのか、現実と対比して自分の事をどう思っているのか。とりあえずこれにて終了である。


 彼は何もしていない。何もしていないことをしているという言いまわしを除いて何もしていない。事件が終れば彼にはもうするべきことが何もない。するべきことのない彼はすでに何でもない彼である。