基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ダンシング・ヴァニティ/筒井康隆

あらすじ
なんか繰り返しちゃったりなんかしちゃったりなんかしちゃったりして。

感想 ネタバレ有

び、びっくりした。まさか前半部のあの滅茶苦茶からあのラストが生まれてくるとは予想だにしなかった。後半に行くにつれて加速度的に評価があがってきてラスト何ページかの、あの死を迎えるシーンはもう何も考えられなくなるぐらいびっくりした。本当に凄い。老いたから書ける文章があるとすればあのラスト何ページかのことではないのか。ジェイムズティプトリージュニアの書いた、輝くもの天より堕ちを読んだときと同等ぐらいの衝撃を受けた。しかもその凄いところは、それをこんな実験小説でやってのけた事だ。

ストーリーでもなくキャラでもなく、純粋に文体というか語りを楽しませて貰った。素晴らしい。ビアンカ・オーバースタディを読む前にダンシング・ヴァニティを読んだ方がいいというような話をどこかで読んだ気がするが、その理由がわかった。ビアンカ・オーバースタディも反復を基調にした話なのだ。しかしダンシング・ヴァニティの繰り返しとはまた違い、同じ時間軸というよりもはっきりと別の時間にうつっているにも関わらずの、繰り返しなのだ。これを読んだ事によってビアンカ・オーバースタディへの期待が高まる。

何かの企画で、色々な作家に、自分が死ぬ時はどんな風に死ぬと思いますか、という質問があった。その中で、普通は家族にみとられて、などと書くものが多いのだが、実際に作家でもそういう事を書いている人が多かったように思う。筒井康隆は、確か近所の悪ガキをステッキか何かでたたこうとして逆に殺される、と答えていたのが非常に印象的だ。細部は違うかもしれないが、だいたいはあっているはず。

まさに、家の前でうるさくしているヤクザを注意して殺された、ダンシング・ヴァニティの主人公ではないか。いや、これをすでに書いていたから、そんな事を言ったのかもしれないが。それにしてもダンシング・ヴァニティの主人公と筒井康隆のイメージが、どうしてもかぶってしまう。その生きざま、というかなんというか。作品の中にも、これ現実に居そうな人だなぁというようなキャラクターが何人もいた。出版社で何度もくだらないミスをする人とか。ってほかにはいなかった。何人もいた、なんてノリだけで書いたけれども完全にオーバーリアクションである

どんな風にでも解釈出来る、という作品であったように感じる。それだけ深い作品ということだろうか。宮崎駿みたいに。例えば虚構も現実であるという風に、世の中に本当の事なんて何一つ無いということは世の中はすべてが本当のことなのだ、という詭弁も成り立つ。そんな事が言いたかったのだと単純に言えることでもないだろう。というか自分、この作品を恐らく理解できてはおるまい。
この同じ事が何度も繰り返されるのが現実か、夢かなんて恐らくあまり意味はないのだろう。読もうと思えば、死ぬ最期の瞬間だけが本当の現実で、今までのは全部意味のわからない夢だった、ともとれる。

自分が理解出来ていない多くの事柄の一つとして、例えば最期に出てきたフクロウはいったい何を表していたのかが自分にはわからない。フクロウが涙を流していたのは何故なのか。Wikipediaで調べたところによると日本ではフクロウは死の象徴であるともいう。または知恵の象徴でもあると。ただこの象徴なんていうのは割と地域差があるもので、あまりあてにしていいものではないが少なくとも日本における死の象徴と、死の瞬間に現れるフクロウというのは完全に意味は合致している。ただ、片方の目から涙を流した、というのは何の意味だろうか。単純に死という概念にすら涙を落とさせる程惜しい存在だったという事だろうか。片方というのにも何か意味はあるのであろうか。

コロス、というのも読んでいる間はわからなかった。読み終えて、Wikipediaで調べて初めて観客の望んでいる反応をする存在の事をコロスという事を知った。確かにコロスに与えられている役目はそのまんま、普通の反応だった。

フロイト的な夢診断の要素が入ってくるとこれはもう完全にお手上げである。精神分析入門を読んだが、象徴するものの種類が多すぎて把握しきれない。

この作品が多分色々な要素を含んでいることは巻末の参考資料を見ればわかる。前半部を少し読んだ時点では、何でこんな小説にこんなにたくさんの参考資料が必要なんだろう? と疑問に思ったものだ。たとえば時空は踊る─関係としての世界、なんていったいどこに関わっているのかさっぱりわからないのである。いや、ループ関係のところで使われているのは当然だろうが。「考える身体」はひょっとして主人公が匍匐前進! と叫んで人が即座に反応するのと関係しているのだろうか、と想像するのが楽しい。いっけんわからなくても多くの要素がこの小説の中に含まれているのは確実のように思う。何でもないただの反復の中にいろいろな意図が含まれているのかもしれない。まぁ気づけないのだから、意味はないのだが。きづけていないにもかかわらず面白いのだからなおさらどうでもいいことなのかもしれない。

読んでいる最中に反復ゆえの欠点というか、単純に自分がしっかりと読んでいないというか覚えていないからなのだが、ちょっとトイレ、とかいって読むのを中断して再び読み始めると、自分がいったいどこまで読んだのかわからなくなってしまうことがあった。あれはこんな小説特有の欠点だったな。

老いぼれて、体も声も昔のように動かなくなって、昔の反則ともいえるような「匍匐前進」も声がかすれて使えなくなり、ぼこぼこにされる描写が悲しすぎる。どうしようもない老いというものが存在する事を明確に意識させられる。今までの回想が入り乱れて次々と襲ってくる場面、また一番最初の繰り返しポイントに戻るもののやっぱりこんなものはダメだ、と病室に戻ってくる場面、どれ一つとっても素晴らしい。何がどう素晴らしいのかというとうまくかけないのだ。だから素晴らしいと書いているのだ。何が素晴らしいってやはりこの文章だろうか。いや、内容が素晴らしいというのはわかっているのだ。何がどう素晴らしいのか説明できないのだ。非常に難しい。このまま投げっぱなしでいいのだろうか。今のこの気持ちを書いておくべきなのではないだろうか、うまく書けなくても。死に向かっていくというのが明確に意識させられる。そのタイミングというか、文章の呼吸というかそういったものが何一つ欠けていないというか、本当にぴったりあてはまった文章がそこにあるというか概念がそこにあるというか非常に書きがたいのは重々承知なのだ。もう意味がわからないが。何より感じ入ったのが、終わり方が老いで終わるということだ。何を書いているのかはよくわからないがこの老いで終わるということに感動したのは確かだ。やっさんに殴られて死んだのは確かだが、やっさんに殺される原因は老いだ。こんな事書くと何をわかりきった、というような感じになるので本当に厭なのだが、人は誰でも老いていって、人は誰でも死ぬのだ、という非常に単純な文学の基本的なテーマともいえる事を突き詰めた小説であったように思う。


 この時代には戻りたくないなあと思う。しかしいったん戻った時はその時でおれはまたいくつかの分岐点において前回とは違う別の選択肢を選ぶのかもしれない。しかしどの選択肢を選ぼうがまたこの病室へ、つまりは自身の死へと戻ってくるのは確かなことだ。だとすればリセットしてもつまらない。生が一回限りでないとすればただの人生ゲームじゃないか。もしリセットを選べと言われたらおれは拒否するかもしれないぞ。よほど死を恐れていない限り誰でもそうするんじゃなかろうか。そんな生であればなんの意味もなくなってしまうからな。


実に基本的な事を言っているように思う。死を意識することによってはじめて生きるという事を意識できるのだ、不自由があってはじめて自由が生まれるように、死が無い限り生きるという事にも何の意味もない。誰だってそうするだろう。


 頸城氏がそこまで言ったとき、正面のドアを開けて功力さんがあらわれた。今度は何も持たず、ひたすら緊張した生真面目な表情で無言のまま、ひたと真正面を見据えておれの前まできて立ち止まった。そして彼女は突然、両腕を拡げ、おれの頭上へとななめ前方に突き出した。その勢いに気圧されて、おれも思わず立ちあがり、ななめ前方へ勢いよく両腕を拡げて突き出した。


これを始めて読んだ時は意味がわからなさすぎてわらったものだったが、読み終わった今も全くこの行為に何の意味があるのかわからない。他にも川崎が突然壁に激突する行為など、意味のわからないことはたくさんあった。
最期に、頸城氏がやってきてこのポーズをとったが、体が動かなくてそのポーズの真似できない、というような場面を読んで悲しくなる。


 みんな美しかった。みんな可愛かった。会いたい。もう一度会いたい。しかしおれはもう眼が見えない。体力も残っていない。見ろ。手をあげようとしてもまったく動かないではないか。指先さえ動かない。ぴくりとも動かない。でも気配だけは感じられる。コロスが病室にいる。自分の立ち位置を心得盡している舞台上の役者たちのように理想的な配置で病室内に立っておれを見守っている。ゆっくりと静かに彼女たちは「グットナイト・スイートハート」を歌い出す。おれは眼を見開いて彼女たちの姿を見ようとする。だがコロスは見えず、ぼんやりとだが枕辺で白い顔のフクロウがおれの顔を覗きこんでいるのが見えた。その片方の眼がしらに一滴、涙が光っている。

泣ける。これほどまでに死に際というものを書けるとは。結構死ぬシーンにはうるさいと自分では勝手に思っているが、それでも満足させてもらえるものだった。今まで片手で数えられるほどしか満足した場面はない。

この小説、実験小説でありながら小説としての面白さを失っていない、と思った。虚人たちは実験小説としては面白かったけれども小説としての面白さを感じられなかった。いや、というかこれは実験小説とひとくくりにしてしまうからであって、単純に実験の内容によるのかもしれない。今回の反復という実験がたまたま小説としての面白さがあるまま読ませてくれるものだったのだろうか。繰り返されるものに人は安心感を覚えるものだと思う、