基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

順列都市/グレッグ・イーガン

奇妙な読後感。今まで水滸伝とか三国志みたいな毒にも薬にもならないような、何も考えないでただ読んで楽しめばいいような小説を延々と読み続けてきていきなりこんなハードな話を読んだせいで頭がパンク寸前である。もっとリハビリしてからにすればよかった。


およそ考えられる限り膨大なSF的要素が詰め込まれているといえよう。タイム・スリップ、コピー、ファースト・コンタクト。意識とは何か、死ぬとは何か、精神を変革して、勇敢な人格になったりした場合、それは元の自分とどれぐらい関係があるのか、などの哲学的問題。


だが、異常に難しい。一番最初の、プロローグを読んだ時点ではふんふん、ちょっと難しいが、コピーの話か、ついていけないこともなさそうだぞ、と調子にのっていたものだったが、一章の時点ですでに理解不能といっていい。混乱の極致。わけのわからない専門用語が大量に押し寄せてくる。さらには理解できる単語の羅列が全く意味のわからない言葉として扱われている。一つ一つの単語の意味はなんとか把握できても、それが幾つも組み合わさって説明されるともうこれが全く意味がわからない。それでありながら、続きが気になってどんどん先を読み進めたい気持ちと、理解できないもどかしさがあいまって読んでいていらいらしたといっても過言ではない。


第一部、エデンの園配置は順列都市の準備で、第二部順列都市順列都市内部での話になっている。エデンの園配置という単語の意味を理解するのに大変苦労したものだ。さらにいえばTVC宇宙、セルオートマトンとかいう単語の意味も頭の上にはてなが何個出ても足りないというぐらいの意味不明さであった。意味自体はなんとなく把握できても、いざ実践というか、話のギミックとして使われ出すと途端に付焼刃的な知識じゃ、柔軟性を失い理解不能に陥る。かろうじて理解しているレベルで書けば、セルオートマトンは何か増える計算モデルらしい、エデンの園配置はなんか最初っからそれ自体で完成している形らしい、TVC宇宙っていうのはなんか無限に膨張し続ける宇宙モデルのことらしい、とひどくあいまいなことしかわからない。幸いにして塵理論の概略のようなものは、どこかで聞いていたようなきがするのでかろうじて理解できた。


とにかく言っている事の話が多すぎて、なんというか、塵理論なんて出してきた時点ですでになんでもありではないか、と呆然とした気持ちになったのを覚えている。塵理論なんてのを具体的に応用できるレベルにあるのならば、もっと別のアプローチがあるのではないかと思ってしまう。


それからそれから書きたい事ならいくらでもあるのだけれども、一つ一つのシーンが、他の小説ならクライマックスというぐらいの緊迫感に満ち溢れたセリフの応酬になっている。俺は最初っからクライマックスだぜえ!って仮面ライダーだが、論理展開がすさまじいせいだったりするのかもしれない。


とりあえずわかったことよりわからないことの方が圧倒的に多い。一応書いておこう。ダラムが二十三の自分のコピーと言っている事の意味がわからない、たぶん読み飛ばしてしまったんだろうが。二十三の生身のポールダラムって、生身には出来ないんじゃなかったのか?パラレルワールドの世界を超えてやってきたのか?こいつは。最後いつのまにか二十四になっていて、さらにいつのまにか二十五になっていたが、あれはトマスを救出するためにさらに分裂したということなのだろうか。


塵理論はなんとなくわかったつもりでいたのだが、それはあくまでも現実の空間上に遍在しているのであって、地球が消滅してもそれはなくならないのかもしれないが、宇宙が消滅したら順列都市ごと消滅するんじゃないのだろうか? それともこれって別の宇宙を創生したに等しいのか? ああ、考えているうちにちょっとわかったが、宇宙とかそういう区別すらないのか、時空間の一つとして、宇宙も観測出来るっていうただそれだけの話か。だから当然現実の宇宙とは別の場所に順列都市を構築することもできるのか。
書いてることと考えていることが一致していないような気がするが文章ってむずかしっ

 「なにが変わるかだと? わたしたちは、ある事象のとりあわせのうちの、さらにひとつの組みあわせかたを知覚し、そこに住んでいる。しかし、その組みあわせが唯一無二だという道理がどこにある? わたしたちの認識するパターンが、塵を首尾一貫したかたちで並べる唯一の方法だと信じる理由はない。何十億という別の宇宙が、わたしたちと同時に存在しているにちがいない──それはすべてまったく同じ材料からできているが、並べ方だけが違う。もしわたしが、数千キロ離れ、数百秒を隔てた事象を、隣りあい、かつ同時に存在するものとして知覚できるなら、わたしたちが銀河じゅう、宇宙じゅうに散らばる時空間の点だと考えているものから作り出された世界や生物も、存在しうるはずだ。わたしたちは、巨大な宇宙的アナグラムの、ありうる解答のひとつだ・・・・・・だが、わたしたちが唯一の解答だと信じるのは、馬鹿げている」


エリュシオンとランバートの関係性がわからん。隣接しあってはいるけれども、それは違う空間なのだろうか。というか基本的にほとんど全部わからないのだが。ランバート人の思想によって順列都市が改変させられてしまうのはわかったが、何故、どうやってそこから脱出する事が出来るのかがわからないし。新しく作った世界にはランバート世界は存在するのか? というかそれは、作中でいってた自由にエリュシオンとランバートをコピーして移住できるという理論を使ったものなのか?というか何故そんな事が出来る?処理能力は大丈夫なのか? というか処理能力なんてものが存在しているのか? 確か膨張し続けているとか言ってたが、処理能力なんていくらでもあげられるんじゃないのか、お得意の塵理論とかいうもので。それからバタフライ理論である。何だか話の根幹にかかわってきそうな事件だったが、単に裕福なコピーたちに、お前たちにも身の危険があるというのを証明するためだけに存在したイベントだったのだろうか。
とりあえずここらでやめておこう。

マリアのお母さんが出てきて、コピーになって生き続けるのなんていやだ、といったところから、これからこのテーマが繰り返されるのかと思ったがもうマリアのお母さんが出てくる事はなかった。マリアの心の中には巣食っていたみたいだが、マリアもなかなか頑固なやつで、最後の最後まで認めようとはしなかったな。実際自分が70ぐらいになったときに子供からコピーになって永遠に生き続ければいいじゃん、なんてこと言われたって受け入れられるかどうか。コピーが生きようがなにしようが自分は死ぬじゃないか、というのはやはり時代遅れみたいに感じられてしまうのだろうか。

 

 「いいかい、最初の<コピー>が造られたのは、わたしが三十三歳のときだ。おまえはそのとき五歳だったから、<コピー>といっしょに育ってきたといっていい──でも、わたしにはいまも・・・・・どうしたってなじめないのさ。それは金持ちの変人の道楽にしか思えない──昔、死体を冷凍保存していたみたいに。わたしにいわせりゃ、何十万ドルもかけて、自分の死後にコンピュータに物真似をさせるチャンスをくれてやるなんてのは・・・・茶番だよ。わたしは金持ちの変人なんかじゃないし、自分の金を──おまえのもだ──使って・・・・口をきく自分自身の記念碑まがいを作る気もない。これでもまだ、分はわきまえているつもりだよ」

パソコンを使えない両親を見て、時代遅れだと感じるようにこれも時代遅れだと感じるようになってしまうのだろう。これは今生きている人たちの気持ちの代弁でもあろう。いくらコピーが自分自身の分身だといったって、これで自分が死んだって大丈夫だとはどうしても思えない。別々の人間になるだけじゃないのか、という気持ちになってしまう。


ただ、別々の人間になるといってもそれは異なる環境におかれているからであって、いや、異なる環境におかれていてもやはり別々の人間といってもこの順列都市の中のコピーは同一人物として存在できるのかもしれないが。もし仮にコピーを作った後も、ダラムがやられたように現実かどうか判断するすべを奪ってしまって、本体とコピーとを全く同じ環境においたらそこの二人の間にどんな差があるのだろうか。コピーと本体はどっちも自分が本体だと思っているだろう。

 ピーは自分に問いかけたことがある。その不変の核と、多かれ少なかれ手つかずの記憶の流れで、じゅうぶんなのか? いまでは別の名前になったデイヴィッド・ホーソンは、金を払った分の不死を手にしたのだろうか? それとも、途中のどこかで死んでしまったのだろうか?
 答えは存在しなかった。せいぜいいえるのは、どの瞬間にも、自分がかつてデイヴィッド・ホーソンだったと知っている──あるいは信じている──だれかが存在しているということだ。

面白い哲学的問題。自分という人格をいくらでも改編出来るのなら、そして改編したのならば、そこに自分の核となるべきものは変わらず存在しているのだろうか、というかそもそも核とは何なのかという問いか。自意識がそれか、喜びとか何に快感を感じるかとかそういったことは自意識とは別のオプションでしかないのか、オプションがあるとすれば核はいったいどこだ?という問題になってくる。


コピーの話とかは飛浩隆のグラン・ヴァカンスでも深い。というか、ラギッド・ガールでの短編の中の場面とそっくりな場面があって笑った。

 「名前はポール・ダラム
 「あなた? オリジナルって、あなたのことだったの?」
 「いえ、違いますよ。わたしが、<コピー>だったのです」

HACKleberryのカリスマであり、世界にみちあふれる数値海岸への憎悪を一身に体現するこの危険人物は、
ジョヴァンナ・ダークは──
一個の情報的似姿にほかならない。
                         ラギッドガール

情報的似姿と<コピー>ってほとんど同じ意味だしな。衝撃度はラギッド・ガールの方が断然上だったが。というか上巻が、この衝撃の事実で終わるのは卑怯すぎる、と読んでいて思った。上巻を読み終わったらいったん休憩しようと思っていたのに下巻を取りに走るハメになった。しかも下巻を読んでも意味がわからなくてさらに渇望するという悪循環というか正循環というか。


しかし、仮想世界で進化した生物とのファースト・コンタクトとかいういやがおうにも興奮せざるをえないイベントだったのにその中身ときたら興奮しようがないような淡々としたものだったな。まぁファースト・コンタクトとは名ばかりの神がその姿を現しに行っただけなのだから当然といえば当然なのだが。今まで何千年も監視してきて、ファースト・コンタクトも何もあったもんじゃない。しかもすげなく否定されてるんだから世話ないぜ。

 「わたしたちは、すでにかれらを終了できません。それは、かれらがエリュシオンに影響をおよぼしはじめている証拠だと思います。もしかれらが、オートヴァースのルールを否定するかたちで自分たちの起源を説明することに成功したら、それはTVCのルールを歪めるでしょう。それはオートヴァースが走っている領域のみでのことかもしれないし──あらゆる場所で起きることかもしれない。そして、もしわたしたちの足もとから、TVCのルールがとり去られたら──」

とんでも理論きた。まるで筒井康隆のパプリカのようだ。あれは夢が暴走して現実に影響を及ぼしたが、こっちはランバート人がただまっとうに生きてきただけの現象だ。単にランバート人の数が増えたから、というわけでもなくてランバート人が進化してきたことによってまさに宇宙の法則が乱れる! だな なんでこんなことになってしまったんだろうか。てういかこれ致命的欠陥とかいうレベルじゃないのだが。まぁまさか、ダラムも成長したランバート人が及ぼす影響力で宇宙の法則が乱れる! なんて予測出来るはずもなく。


トマスもなかなかいいキャラクターであった。

 もしアンナを殺しそこねたら、自分は無だ。あとにはなにも残らない。アンナの死がなければ、いまの自分は、この恥と狂気のすべてはなかったのだ。アンナの命を救ったと信じるのは、自分を永遠に忘れ去ることに等しい。
 すなわち、死だ。


自殺の原因に失恋が多いのは、その相手のことを考えていた時間が長いせいだという。つまり、恋に落ちるとなると暇な時間ほとんどその人の事を考えていたりするもので、失恋することによって今まで相手の事を考えていた時間と、もし仮に成功していた場合の幸せな時間を同時に喪失することによって途方もない絶望を味わうのだ、と勝手に考えている。トマスも、アンナを殺したことによる恥とかを常に心に持って生きてきたのに、それを薬やプログラムによって消す事は今までの人生を否定することだといっているのだろう、それが死だと、不死というものが日常化されているこの世界においての死の表現としてはこれ以上ないほど現実的な死である。

マリアが、最後の最後までマリアの母親がコピーを作らないのが理解できない、といっていたが、最後の最後の最後にやっと理解できたようである。まさか投げっぱなしになって終わるのではないかと心配していたからその点はよかった。

 たぶん、だれにでも前進できなくなるときが、死以外に選択肢のない時がやってくるのだろう。もしかするとランバート人が正しくて、''無限''は無意味なのかもしれない・・・・そして、''不死''という蜃気楼に、人間はあこがれてはいけないのだ。
 人間は──。


死をやっと認めたか、と思いきや認めたのは人間限定であった。コピー状態になった彼女は自分を果たして人間と定義していたかな? コピーを現実の人間と同じだと言っていたからコピーも人間として定義しているのかもしれない。前進と上昇です、といってのけたダラムが最後異様にかっこよく読めた。ただ、コピーになったことによって、過去に縛られ、死ぬという選択肢を選ばなくても大丈夫になった。今までは死ぬしか選択肢が無かったような人も、違う選択肢を選べるようになった、不死はあこがれてはいけないものかもしれないが、違う選択肢を選べるようになったというその一点だけは不死に頼ってもいいのだろうか。


最期に、奇妙な読後感と書いたがそれは何故だろうかと考えてみた。恐らく、途中までの内容と最後の大どんでん返しがあまりにも印象が違いすぎて、とまどうような心持ちだったのではないか。まさかこんな着地点は予測していなかった、というように。というか読んでいて終わり方が全く想像できない小説というのも久しぶりだった。どうとでも出来るような内容だったからだ。そして思いのほかそのどんでん返しがきれいに着地したものだから、唖然としてしまったのかもしれない。