基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

七胴落とし/神林長平

あらすじ
誕生日おめでとう


感想 

しょっぱなから神林節炸裂で安心する。何がどう、というわけではないのだけれども、予備校の悲観的な描写とか。何故予備校は太陽の熱で溶けてしまわないのか、とか普通考えない。いい感じにエロとヴァイオレンスである。SFはエロとヴァイオレンスで出来ているといったのは小松左京だったか。


七胴落としというタイトルだけで、なんとなく七連続胴落としを得意技とする格闘少年の小説かと勝手に想像していたのだがそんなことなかった。そもそも七連続胴落としとかいう技がうまく想像できない。


いつも神林長平の本の、一番最初に書いてある一文が楽しみなのだが、今回は誕生日おめでとうであった。内容を全く知らなかったので、思わずありがとうと言いかける。いや、実際にはそんなことはなかったが。普通に無視して読み始めた。超能力と大人と子供というのが作品全体のテーマになっているが、超能力の扱い方が独特というか、どこか投げっぱなし感がある。超能力を使って、主人公とか麻美が人を殺しまくるのにそれを最後の方まで捜査する人間が出てこないというのはこれ、警察の怠慢とかいうレベルではないのでは? ミステリーで、本当にすぐれた探偵なら最初の犠牲者が出る前に事件を解決できるはず、という話があるが、これはそれ以下で5人も6人も殺されてやっと犯人に追い付いているようじゃどうにも納得がいかない。ミステリーでいう警察が無能すぎるというやつである。ミステリーを読んでいて、探偵にばっかり頼っていて何の成果もあげられない警察を読んでいてそう思うようにこの小説に対してもそう感じた。


主人公が強烈な厨二病であるが、読んでいていらつかないタイプの厨二病であった。いや、いらつかないタイプというよりもぎりぎりでその線を回避しているのかもしれない。境界線上だ。あるいは突き抜けているからかもしれない。自分の過去を掘り返すような描写はきっと読んでいる人間にも、嫌悪感をいだかせるだろうがこの主人公あまりにも突き抜けすぎているから。


超能力の描写である。一つ疑問なのが、これだけの強力な能力であるのに副作用は一切ないのだろうか? 他人にも見える実体を長時間作り出しておきながら副作用が存在しないのか。そして、思ったより能力が制限されていない。どんな超能ストーリーでも、たいていはその能力は制限されているものだ。地球へ・・・は能力を剥離されるし、七瀬シリーズでも超能力者は迫害される運命だ。いや、でもこの世界じゃ、子供は誰だって超能力を持っていて、大人になったら無くなるのだから許容されている部分もあるのだろうか。なにしろ特別なことじゃない、異常は迫害されるが誰だってもっているのだから迫害されることもないか。


超能力者の反乱とかの話になればまた、まったく別視点の物語になるのだろうが、大人になったら自然に能力がなくなるというのがキーポイントだろう。子供はいつ大人になるのか、という哲学的な問いもある。この世界じゃ超能力がなくなる=大人になるということだからその境界線上は明確なのだろう、またそれとは別次元で精神的に大人になる、というあれもあるが。でもこれ、超能力っていうテーマを使って問題を拡大しているだけで実際のところ言っている事は現実と大差ない。所詮子供と大人は相容れないものなのだ。

 ぼくには感応力がなくなるなんてどうしても信じられない、感応力を失うことが大人になるということなら、ぼくは大人になんかなりたくない。感応力を失うことは成長の結果じゃない。老化だ。

確かに。ビールがうまいと感じるようになるのは舌の苦み成分を感じる細胞だか組織だかなんだか知らないが、それが劣化していくことによってうまく感じるのだし、子供がピーマンを嫌いなのは、苦味に敏感だからだ。大人がピーマンを食べれるというのはただ体が劣化していったからに他ならない。作中で、子供は超能力を持って色々な事を感じるけれど、大人になったら感じる事が出来なくなる。それは別に超能力がなくたって同じ事で、子供の頃は自由な発想で、固定観念にしばられずに色々出来たのが、大人になるにつれて常識を植え付けられ出来る事がどんどん少なくなっていく。人はいつ大人になるのだろうか、なんてこと考えてもしょうがないことだが、ひとつわかるのは何歳になったから貴方は大人です、というわけにはいかないってことだ。大人になる瞬間なんてのは、将棋の駒が裏返るみたいに一瞬で起こるわけがないのだから、恐らくいつのまにかなっているのだろう。そしてふっと、ああ俺(私)は大人になっちまったんだなぁと実感するような事があったら、その人はもう大人なのではないだろうか、と勝手に考えている。自分は大人なのだろうか?と疑問に思っているうちはまだ大人じゃないだろう。周りの人間が大人だといおうがいうまいが、自分で自分が大人だと思ってりゃ大人だ。


最期、麻美と主人公の、マリンガはなかなか心躍る描写だったな。どっちが勝ってもおかしくない、という気分がそうさせるのかもしれない。これがたとえば週刊少年漫画だったりしたら主人公が勝つのは、わかりきっている事だ。って対象は週刊少年漫画だけだが。お互いに精神を操って自殺に追い込むとか、なかなか陰湿な遊びじゃないか。そもそもが全て、精神世界の出来事なんだ、帝王の殻でもいっていたが、何一つ取ったってオナニーのようなもので基本的にネクラだ。他の人間には見えないのだから。


最期感応力がなくなって、まわりの人間におまえらみんな死体だ! 自分も! というのは、感応力で感じていた感覚がなくなったから、石ころみたいになってしまったように感じたからだろうか。強すぎる能力のせいでそうなったといえば他の数多くの感応力を失った子供たちがそうならなかった納得はいくが。まぁそりゃ主人公にとってみればそこらのぬいぐるみが今の今までペラペラとしゃべっていたのに突然何もしゃべらなくなったらそりゃ死体だ! と叫びたくなるのもわかるが。


ただ一番わからないのは最後の佳子のセリフである。

 ≪やっと一人前になったわね、三日月さん≫と佳子がいった。


え、佳子超能力つかえるのかしらん?と一瞬考えたが、今までの超能力会話は<>であらわされていたし、それに主人公は感応力を失っているのだから聞き取れるはずもなく、作中で何度も佳子がやべぇやべぇといっていたように、<>よりももう一つレベルのあがった≪≫ということで悪魔のような能力の強さを持った女だったのだろうか、佳子は。だから感応力を失った主人公にもテレパシーを送る事が出来るのか?しかし佳子がいった、と書いてあるから実際に発言されたのかもしれない。ということは別になんてことなく別に佳子は超能力が使えないということだろうか。うむ、よくわからん。