基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

パラレルワールド 11次元の宇宙から超空間へ/ミチオ・カク

おもしろっ いつも思うのだが、これほどの知識を持っていて、SFを書きたいとか思わないものなのだろうか、こういう物理学者は。
本文のいたるところに、SFからの引用が見られる、無意味な引用じゃなく、難しい事象を説明するのに非常にわかりやすい。それにSFっていうのはハリウッドの予告編を見るかのごとく、あらすじを簡潔に書かれると非常に面白そうに感じるものである、実際に読むよりも。プラス、説明にそのつどわかりやすい例え話があり、それが明確でわかりやすい。今まで読んだ中宇宙論の本の中じゃ格段にわかりやすい。まぁ、量子論もひも理論もすでに何回か読んでるからその積み重ねでわかるようになっただけかもしれないのだが。それでもひも理論は具体的な内容に関しては、さっぱりわからないといっていい。あぁ、ひもね、ひも、あれはすごいよね、なにしろ長いからね、という知ったかがかろうじて出来るレベルぐらいの知識しかない。わかりやすく書かれているのはわかるのだが、それでもわからないというひどい有様なのである。



気になった点が二つ、いや三つあって、というかいきなり書くようなことじゃないのだが、筋道だてて書いていくというのが苦手というかめんどくさいので思いついたことから書いていくのだが、タイムマシンが出来た以前には、タイムマシンで戻ることができないという理論があるけれど、ということはタイムマシンが出来た瞬間に未来から大量のお祝いを言う使者があらわれて地球は人であふれかえってしまうんじゃないだろうか。そうなったら面白いのう。タイムマシンが、完成したぞ!→おめでとー!×5万人 みたいな。



それから、ブラックホールに飛び込む人を、外から見ているとブラックホールに飲み込まれる前に静止してみえるという話だが、もし仮にブラックホールを移動手段として使えるようになったとしたら、ブラックホールを通るたびにそんな残像が出来てたらそのうち大変な混乱状態に陥ってしまうんじゃないだろうか。何しろ残像が残っているわけだから。一つか二つならいいがにぎやかになってしまいそうである。そういやゲイトウェイはこの問題を書いていたんだな。この本を読むまで、ブラックホールを通る時に時間が止まるの方を逆に覚えていた。つまり、ブラックホールに飛び込んだ人間の主観時間は引き延ばされて、客観的には一瞬でブラックホールに吸い込まれると思っていたのだが、逆だったのか。



三つ目は、パラレルワールドを移動できる手段があるとして、というか量子理論でいったらパラレルワールドを自由に移動できる技術が出来る可能性があるならば、数ある宇宙の中でパラレルワールドを移動できる技術が完成させられている宇宙が存在するはずなのだが、そういった宇宙からの存在が今のこの世界に現れないのは何故なのだろうか? タイムマシンならば、タイムマシンが出来る以前にはいけないという制約があるのかどうかしらないけれど、それでこれないのかもしれないが、量子理論ではそういった制約はない、とはっきり本文に書いてあったのだが。



まぁどの疑問も、難癖などでは全然なくて、むしろ無知か、あるいはもっとわくわくさせてくれるような疑問なのだが。文句をつけるところが見当たらない。凄すぎて笑ってしまった。人を怒らせるより人を笑わせる方が格段に難しいと思うが、人を泣かせるのと人を笑わせるのとでは、どちらが難しいのだろうか。いっけん泣かせるのは怒らせるのと同じぐらい簡単なように思う。ツボを押さえておけば、かなり短い文章でも人を泣かせる事は出来る、はず。同じぐらいの人数を笑わせるのが同じ文字数で出来るのならば難易度的には同じという事になるのだろうか。怒らせるのと泣かせるのではどちらが難しいかな、いやこれはまったく関係ない話だった。何故笑ったかというと、ひとつひとつの話の規模が異常に大きいのだ。波動を計測する装置が何十キロも離れた波を感知して安定しなかったり、いちいち単位が10の何十乗とあらわさないと書けなかったり。学者の話も非常に面白い。実際に触れあったから書けることなのかもしれないが、ファインマンの皮肉など思わず笑ってしまった。しかもファインマンが皮肉った理論は、ノーベル賞をとっているしファインマンもうちょっと考えろ。まるで子供のような人間である。

 

 十次元の宇宙を認めると、理論はほとんどSFになってしまうのだ。そのため、ひも理論の提唱者は笑いものにされた(ジョン・シュウォーツは、リチャード・ファインマンと同じエレベータに乗り合わせたとき、こう茶化されたらしい。「やあ、ジョン。今日は何次元に住んでいるんだ?」)。

グースの話も面白い。働き口がなくて困っていたが、インフレーション理論を考え出した事によっていろいろな大学からおよびがかかった、だが第一希望であるMITからは声がかからなかった。しかしおみくじに、あまり臆病にならなければ素晴らしいチャンスがあります、と書かれていた。そこで、MITに電話をかけ、見事に採用を勝ち取った、もう一度おみくじを手に入れたが、そこには一時の衝動にかられて行動してはいけませんと書かれていた。このアドバイスは無視して彼はMITのポストを受諾することにした。いやいやいや、そこは無視するんじゃないよ。したがっとけよ。いや、もちろん特に不具合は起こらなかったからいいのだろうが。まぁ自分に都合のいい結果だけ受け取るのがおみくじの本来のあり方なのかもしれないな。



地味な驚きといえば、宇宙論というのが発達したのがここ200年程でしかないということだ。ほんとにこの200年という短い時間で、よくこれだけ進歩したものだと感心しかりである。それから、アインシュタインがいかに凄い人物か、ということである。どこまでいってもアインシュタインの理論が追いかけてくる。いかに多くの事をアインシュタインが予言していたかと、今の物理学はアインシュタインが駆け抜けていった道をただなぞっているだけじゃないか、という気さえしてくる。とにかくアインシュタインにまつわる話は面白い話が多い、その妻の話ひとつとっても面白い。


 アインシュタインの妻は、ウィルソン山の巨大な天文台を案内されたとき、この大きな望遠鏡が宇宙の究極の姿を明らかにしようとしているのですと言われ、平然とこう答えた。「主人はそれを使い古しの封筒の裏でしていますのよ」

この妻がエルザなのかミレーバなのかわからないが、たぶんエルザなのであろう。エルザに関して言えば、名言がたくさん残っている。一分間の深イイ話でも、相対性理論について理解していますか? ときかれ、相対性理論のことはわかりませんがアインシュタインのことを最も理解しているのは私ですと答えている。とっさにこういう返し方が出来るあたりかなり頭の回転は速かったのだろう。



アインシュタインのセリフでこんなものがある。


 熱いストーブの上に一分間手を載せてみてください。まるで一時間ぐらいに感じられるでしょう。
 ところがかわいい女の子と一緒に一時間座っていても、一分間ぐらいにしか感じられない。
 それが相対性というものです。


「あなたが今日 無駄にした一日は、昨日 死んだ人が一生懸命生きたかった一日である」なんていうセリフで無駄に一日を過ごした人間を戒める言葉があるが、自分の一日と、死にそうな人が望んでいた一日の価値は全く等価ではないといえるだろう。無駄に一日を過ごす自分だって、もうすぐ死ぬとわかってりゃ無駄になんかすごさない。自分にはまだまだ時間があるとおもっているからこそ無駄に一日を過ごすし、その選択肢は間違っていない。ただ、価値が違うだけだ。上のようなセリフを読むたびに無性に腹がたってくるのである。

自由意思についてのアインシュタインの言葉


 私は決定論者だ。私はあたかも自由意志が存在するかのように行動することを強いられている。文明社会に住みたければ、責任のある行動をしなければならないからだ。哲学的に言えば、殺人犯は自分のおかした罪に責任がないと思うが、彼とお茶を飲むのは遠慮したい。疑いもなく、私の生涯は自分ではどうにもならない、さまざまな要因によって決定されている。その要因は、おおむね神秘的な分泌腺のようなもので、自然はそのなかに人生のまさにエッセンスをたくわえる。ヘンリー・フォードならそれを内心の声と呼ぶだろうし、ソクラテスはダイモンになぞらえた。二人とも独自のかたちで、人間が自由ではないという事実を説明している・・・・・あらゆることが定められており・・・・・われわれにはどうにもならない力で決定されている。虫も星も同じことだ。人間、植物、宇宙塵、われわれ自身。すべてのものが、目に見えない演奏者が遠くで奏でる不思議な調べにあわせて踊っている。

自由意思がまやかしだってのはいろんなSFで読んだ気がする。特に神林作品で顕著だ。



序盤の4章近くまで、というか第一部だが、ほっとんどパラレルワールドの話は出てこず、そこに至るまでの宇宙の基礎知識の積立、といった印象が強い。第二部ではじめて量子論というか、並行宇宙の話の解説に入り、第三部でついに超空間への脱出、いかにして破滅に向かう宇宙から脱出に向かうかの話に入る。



どこが一番面白かったかといえばそれはまぁ第三部だが、面白さの種類が違ったように思う。第三部はまるでSFを読むかのような気分で読んでいたが、第一部と第二部はなんというのだろうか、勉強というわけじゃなくて、ミステリーのための仕込みというかなんというか、ああかけない。



とにかく面白かった。宇宙ひもと量子論に関する一番わかりやすい部分はすでに、ここまでわかった宇宙の謎、と暗号解読で読んでいたので、多少退屈だったかもしれないが、それにしたって理解出来ているはずがないので、何回読んでも面白いのである。



全く理解できないのが、十一次元とか十次元とかの話である。いったいなにをいっているんだこいつらはというレベルである。四次元が、縦横高さの三次元空間にくわえた、時間の次元だというのは理解できる。だが五次元から上はもう意味がわからない。いったいどこにあるのか?というか縦横高さ時間みたいな具体的な名称はついていないのか? ちょっと調べてみたところだと、五次元以上に軸の名称を与える事は不可能らしい。 さらに線をひくことによっていくらでも次元が増やせるとか。ああ、そういえば例え話で非常にわかりやすいものがあった。二次元に住んでいる人はつまり、机の上で動き回っているようなもので、三次元に住んでいる人から見れば彼らの動きは一目で理解出来る、四次元に住んでいる人が三次元を見るのも同じ感覚だとしたら、五次元六次元もそれがどんどん積み重なっていく感じなのだろうか。 まぁ五次元がわからないのだからそれが十次元になろうが百次元になろうがもうどうにでもなれ、という感じなのだが。五次元に登場するモデルかなんだか知らないのだが、宇宙の一つにド・ジッター宇宙とかいうのがあって思わず笑ってしまった。 ド・ジッターって・・・いったいどんなミスをおかしたんだ・・・。



順列都市のランバート人のように、ひょっとしたら人間の視点からじゃ理解出来ない宇宙の真理みたいなのがあるのかもしれんが、ひも理論みたいに一見筋が通ってる理論が出来ることによって宇宙が変質するとかいうことになったら面白いのだが。しかし宇宙がやばいから他の宇宙にいこうみたいな話は現実感がないとかいう話じゃないな。その前に地球に降りかかる大量の危機をどうするつもりなのだろうか、そっちを解決してから宇宙を脱出する方法を考えてもらいたいものだ。だが、ゲームでもハードからやって、次にノーマルをやると簡単に感じるように、目標は出来るだけ高い方がいいのかもしれない。テストで100点を狙って80点をとる、みたいな。最初っから80点狙いだと60点になってしまうのかもしれない。だから宇宙脱出をあくまで考えながら、その理論の応用で地球氷河期とか、隕石襲来を乗り越えればいいのか。絶対に宇宙が消滅するより人間が消滅する方が速いと思うがそれは言ったらおしまいなのだろうか。



タイプⅠ、Ⅱ、Ⅲ文明に分けるというのはそそる話だ。このはなしも、どこか別の本で読んだ事があるような気がするがこっちの方が断然深い。特にタイプⅠ文明になった場合の、未来予想が面白い。資源の分配の問題があげられているが、資源をどれだけ効率的に分配するかというよりも、分配される人間の数を減らした方が圧倒的に効率がいいと思うのだが。資源が増えるのには限界があるが、人間が減ればそれだけ楽になる。というか総人口が何十億だか知らないが人間が多すぎるだろう。せめて今の半分ぐらいになれば、餓えて死ぬ人間もだいぶ少なくなるのではないか?



中性子星を集めてぐるぐるまきにするとブラックホールが出来るという冗談のような話が書いてあったが、だいぶまえに読んだ竜の卵の謎がついに解けた。竜の卵の感想を書いた時、なぜこいつらは中性子星をわざわざ作っているんだろう? と疑問を書いたような気がするが、なるほど、ブラックホールを作ってワームホールとして移動手段にしようとしていたのか。



宇宙の神秘というのは不思議なもので、何故人間が生まれる事が出来たのか、というのは特に不思議である。この本でも書かれていたように、宇宙の元素が少しでも違っていたら生物なんて生まれなかったはずである。地球の位置や太陽の位置や月の位置が少しでも違ったら地球に生物が生まれなかったのと同じように。ただ、別に不毛な土地でも条件さえあえば、生物は生まれるんじゃないかという気はする。竜の卵を読んだせいかもしれないが、中性子星みたいな生物が存在しそうにない星にも意外と小さい生物がうまれるんじゃないか。もっともあれは何故そんな生物が生まれるのかの理由がかいてあるのかないのかしらないが、意味不明だったが。ものすごい小さい知的生物ってのは、いったいどこに記憶媒体というか考える能力があるのだろうか。



ワームホールがもし実用化されるとして、はじめて飛び込む人間はナマコや納豆を始めて食べた人間よりよっぽど怖いだろうな。ってたとえがおかしすぎるが。しかし、ワームホールがとてつもなくちっさかったとしても情報をちっちゃくつめて向こうに送り込んで組み立てればよくね? とかいう理論が真面目に検討するとどう考えてもアホ、としかいいようがないのだがそういうどう考えてもアホだろ、というようなスケールのでけぇ話を語るのがどうしようもなく面白いわけで。だけど、もしそんなことができたとしてもその未来じゃ、ワームホールを通り抜けられない人間はその宇宙で座して死を待つしかないんだなぁと考えるとかなしいのう。

 私の考えでは、人生の真の意味は、自分自身の意味を生み出すことにある。われわれの未来は、自分自身で切り開くものであって、どこか高い所に居る権威から手渡されるものではない。アインシュタインは、人生の意味を明かしてほしいと手紙を送ってくる多くの人に慰めを与えるという点では、自分は無力だとこぼしていた。アラン・グースもこう言った。「そういう質問をするのはかまわないが、物理学者に訊けばほかより賢明な答えが返ってくると期待すべきではない。私としては、人生に目的はあると思う。その目的は結局のところ、われわれが人生に与えた目的であって、なんらかの宇宙の設計から導かれた目的ではないだろう」

ただ、ビットからイット論で宇宙を考えた時に、宇宙は自分を観測してくれる存在として生命を生み出したという理論が考えられるからビットからイット論の中ならば、人間に与えられた使命は宇宙を観測することということになるのだろうか。それにしてもアインシュタインだってそんなこときかれても答えられないっすよという話。まぁ結局宇宙がいくら壮大で深淵な意味を持っているように見えても結局最後に考えるのは自分だってことですか。


あらためてこの本について考えてみると、スケールのでかさに圧倒されることしかりだ。地球の中だけで満足している人間がとてつもなくちっぽけに見えて、この広い宇宙の中に知的生命体が自分達だけしかいないのかもしれないと考えると、さびしさが襲ってくる。宇宙から見たらほんとに何もかも小さい。