基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

泣き虫弱虫諸葛孔明/酒見賢一

あらすじ

張飛は快楽殺人者だし、関羽は春秋信者だし、劉備はヤクザの親玉だし、孔明はマジキチ。


感想


諸葛均悲惨すぎる。解釈が新鮮といえば聞こえはいいが、出来るだけ面白い方向に、うがってうがってうがり倒して読んでいるだけである。面白くなりそうなところは徹底的にねじまげて面白くしてしまうが、難解だったり、あやふやだったりするところは全部仙人のせいや、孔明の異常性の一言で片づけてしまっている。孔明の家が自動歩兵で溢れかえっていると想像すると怖気がふるうわ。


というかこんな孔明がいたらこわいわ。ノリノリで書いているというか、作者自身が孔明の生き写しではないかというとんでもない孔明ととんでもない作者。この孔明のどこをどう深読みしたら泣き虫弱虫なのかわからない。いや、最後は確かにおお泣きしていたが、いくらでも涙を流せる術を持っており後年吐血も思うがままと書かれているぐらいだ、どう考えても嘘泣きである。孔明に悪意を持ってむちゃくちゃな人間象にしたてあげようと画策しているとしか思えん。ノリがどっからどうみてもギャグ漫画である。転げまわりながら笑った。かっこいい劉備やかっこいい張飛はまったく出てこない。いや、そういうのはもう北方三国志でお腹いっぱいだったからちょうどいいともいえる。ストーリーはほとんど三国志演義をなぞっているのかどうか、たぶんそうだろうが、正史としての正しさだけを見るならば、北方版の方が正しいだろう。もっとも北方版も、武将をかっこよく見せるために勝手に内容を都合のいいように変えてしまっているから事実とは程遠いといえるのだが、三國志酒見賢一風にいうならば)に準拠しているのは北方版だ、と思う。不自然なほどに孔明が負けまくるのだが、なるほど、あれも正史故か。確かに正史だと孔明は負けまくっているようである。読んでいる最中も何故こんなに孔明が弱いんだ! ふざけんな! と思ったものだったが、そうなっているんだから仕方ない。とすれば昔読んだ神のごとく強さをほこっていた孔明が出てくる吉川版三国志や横山版、小国民三国志演義準拠だったのか。


とにかく孔明である。最初からこんな孔明にしようと思っていたのか、出来るだけむちゃくちゃなやつにしようという意図でだんだんこうなっていってしまったのかしらないが、何しろ宇宙規模である。こんなにむちゃくちゃをやっていて、いまにも神と自称してしまいそうな孔明が、このあと、第二部の戦いで負けまくるとはどうしても思えない。なにしろ天気を操れて、機械歩兵や機械軍団を持っており、さらには一人で一万人を相手に負けないとされる関羽張飛がいて、それにまさるとも劣らない趙雲がいる時点で負けるような気がしないのだが、何故こいつらは負け続けるのだろうか。


一万人相手に出来るならば、関羽張飛趙雲は部隊なんて持たないで、一人一人孤立して敵に突っ込んでいけばいいのに、そうすれば三万は絶対に足止め出来る。その間に火刑でもなんでもすればよかろうなのだぁー! 勝てばよかろうなのだぁー!

 英雄豪傑どもの果てしない戦いの背後では、老人幼少が分け隔てなく大虐殺され、女はさらわれ、見境無く繰り返し繰り返し強姦されているのであり、残虐この上なく、『三国志』には踏みにじられた人々の怨瑳の声が満ち満ちて抑圧され秘められているのである。『三国志』を面白がっていいものかどうかいささか悩むところである。
 英雄連中もしょっちゅう二十、三十万の大軍を起こしては火で燃やされたり、河江に沈められたり、得体のしれない罠にはまったりして、虫けらのように殺されてゆく。それを、
 「乾坤一擲の大智謀、秘計が当たったわい!」
 と喜んだり、褒めたり、けなしたりし合っているのである。人間の知性は『三国志』では、人殺しに用いられるばかりである。紛争解決にもっとよい知恵を出すのが知性というものだろうと思いたい。敢えて人類とは度し難い生き物だという事を示したいのか。


こうして書き写してはじめて意識した事だが、どうも無性に文章のリズムが狂わされる。文章のリズムが変則的である。いつもより打つのが非常にめんどうくさい。この辺がやけに面白い、語りの秘密なのだろうか。文章自体がほかの作家とまるきり違っている。


しかしこうして改めて考えてみると、確かに戦争ばかりしているこの三国志時代は民にとっては冬の時代であったろう。曹操張飛については、天国のような時間だっただろうが。いや、この二人もいくらなんでも身の回りに戦がなかったら戦闘狂にはならなかったか。死ぬ時は万単位で死んでいくのだから恐ろしい話である。水滸伝は、軍が多くても十万という、それでも想像できないがまぁ十万ね、十万、と納得できるぐらいの人数だったが、二十万三十万五十万というレベルになってくると、人が地を埋め尽くしているといってもまだ足りないぐらいで想像もできない。赤壁の戦いで何万だかわからんが大軍を動員した曹操だが、どうも十四万人ぐらい死んだらしい。日本で今十万も死んだらいったい何年間ニュースになるかわからんが、それは現代のことで、かといって織田信長の時代に十万の死者が出るというのも想像しにくい話である。確か戦だと戦力を四割か五割も減らされたら全滅といっていいぐらいの被害だというから、十万も二十万もの若い働き手がどんどん死滅していくのはなかなかひでぇ話である。よく耐えきったなこの時代。この大砲も何もない原始的な時代に、やっぱり一番の有力な撃滅手段は火計であったのだろう、振り返ってみるに火計が使われている場面が多すぎる。 まぁ江戸時代になっても家が燃えたら周りの家をぶっ壊すしか方法がねぇ、としてたし、今だって森林火災なんて起きたらとてもじゃないが全部燃えるのを待つしかないという現状を鑑みるに、やっぱ火計最強だな、ということだな。

 悪童は、ある時は落とし穴に落とされ、天井からは巨岩が落ちてくる。ひどい場合には孔明の虚報の策(と書くとかっこいいが、要するにウソをついて人を陥れているだけであり、とうてい仁とはいえない)にまんまとはまったおとなたちに打ちすえられ、木からつりさげられ、遊び仲間からシカトされる羽目になる。また家ではその未明、孔明得意の火計の策(こう書くとかっこいいが、要するに放火である)が小火騒ぎを起こした。孔明をいじめると必ずそんな目に遭うので、みんなは恐れて手を出さなくなった。後の天才謀士の片鱗がちらりと垣間見られるところである。

孔明マジキチ。陰湿すぎる。世のため人のために成敗でもなんでもしたほうがいいんじゃないか。しかしこの場面は、泣き虫弱虫諸葛孔明の中で二番目に面白かった場面である。ここで使われている(こう書くとかっこいいが、要するに放火である)のパターンは形を変えセリフをかえ、これからも要所要所で使われていくことになる。そのどれもが面白い。劉備のガサ入れのシーンとか、詳しくは書かないが、意図的に劉備一族に対して世間一般的イメージであるヤクザ像を抱かせるような描写が目立つ。


そもそも、当然というべきか、張飛はひどいアル中であるかのように書かれているが、三国志読本に書かれていた内容によると、当時は酒を造る技術がまだ進歩していなくて、アルコール度数1%未満の、酒ともいえないようなひでぇものしか造る技術がなかったそうである。だからこそ正史の中ではおよそ信じられないほどの量の酒を飲む描写が頻繁にあるわけだし、それを今で考えたらそりゃやべえ程飲んでいて、当然アル中になるだろうと思うはずだが実際そんなことはないのである。アルコール度数1%未満の酒をのんでアル中になろうとおもったら一秒も休まずに飲み続けなければ、体内の分解度の方が上回ってアル中になれないのではないか。と三国志読本に書いてある内容にふまえて考えるとそう思う。張飛アル中説にはちょっと納得がいかない。


字(あざな)が何を意味するのかいまいちわからなかったのだが、諸葛が姓で亮が名であって、どうも名を呼ぶのは相当不敬にあたるらしいのでそれを回避するために、呼びやすい字(あざな)があったようなのだが、ニックネームというものなのだろうか? いまいちイメージとあわないのだが、じゃあ諸葛亮孔明と書いたら、日本でいえば仮に佐藤 隆彦という男がいたとして(実際にいてオリンピックでエラーを連発しやがりやがったが)彼のニックネームはGG佐藤だから、佐藤隆彦GG佐藤! と呼んでいるにひとしいということなのだろうか。ややこしい事この上ない。そのくせ劉備玄徳は姓も名も字(あざな)もつなげて呼んでもいいということになっているらしいし、いまいち意味不明である。この本の中でも、ほんの数回だが諸葛亮孔明! と呼んでいる場面が存在する、諸葛孔明と呼ぶ場面も存在するし、いったいどうやって使い分けているのだろうか、ひょっとしてその場のノリだろうか。個人的には諸葛亮孔明の方が語呂がよくて好きなのだが。


唐突に徐庶の話にうつるが、かわいそうな男である。完全に孔明の引き立て役として存在して、いなくなったらもう歴史の表舞台に立つ事はない。しかもこの酒見版劉備軍といったら軍というのもおこがましいようなヤクザの寄り合い所として書かれており、そんなところに行かなければいけなかった真人間徐庶ことを思うと涙が流れてくる。こないけど。ただ、短い間の登場ながら、その存在感は割とあった方だと思う。やはりこの奇人変人だらけの酒見版三国志の中においての数少ない真人間であるからか、忘れるのも難しい。諸葛均は真人間とは到底いえまいし。劉備軍に居る人間は劉備軍に居る事が出来るというだけですでに真人間ではあるまい。例外として、徐庶孔明の姉、黄氏の父ぐらいだろう。

 

 「元直いきまーす」
 と徐庶の初出陣が起きるのである。


アムロじゃないんだから、と言いたくなる物のとちくるったような名言も残っているがそれでも真人間といえるだろう。そもそも登場人物が滅茶苦茶な言動をして、作者が突っ込んでいるがいやいやいやそれはお前が言わせているのだろうと思わずお前といって突っ込んでしまうような場面が多々ある。ただ元直いきまーすについては突っ込みすらない。このあと二万もの敵を殲滅する策を授けるのだから恐ろしい限りである。なんと人の命の軽い時代か。こんな恐ろしい書物をかっこいい! 張飛! とか思いながら読んでいたかと思うと…別に何も感じないが・・・。


三顧の礼の一件で、酒見賢一英語版三国志を書いた部分では腹かかえて笑った。先ほど火計の所で二番目にわらったところとかいたが一番は確実にこのあたりである。

 この、現に同時に存在している書物の並行宇宙世界ではリュー・ベイ(劉備)とクワン・ユー(関羽)、チャン・フェイ(張飛)はピーチ・ガーデン・プレッジ(桃園結義)以来、互いを''ブラザー''とクリスチャンチックなのかヤング・ギャング風ブラックスタイリッシュチックなんか、呼び合っており、チャン・フェイが敵をヒットしたりすれば、リュー・ベイ、クワン・ユーは、
 「ナイス・アタック! ブラザー」
 とビっと親指をつきたてて拳を握ったりするわけだし、黄布賊を追い詰め皆殺しにするときも、キャプテン・リュー・ベイが、
 「ヘイ・キル・ゾーズ・フェローズ(奴らを吊せ!)エクスターミネート、イエロー・ターバンズ!(黄色頭巾どもを血祭りに上げろ!)」
 とイエローどもを人間と思うな、とメキシコ人密入国者を狩るように豪快に命令し、ツァオ・ツァオ(曹操)がド汚いことをすれば、
 「ファック、ツァオ・ツァオ! ガツッ・ダムン・シット」
 と口汚くののしるのがよく似合う。連環のデンジャラス・ビューティ、チャオ・チャン(貂蝉)などはさぞかしビッチ系の蔭口に耐えていたに違いあるまい。

ア・・・アホすぎる・・・。信憑性も薄すぎる・・・。だがこいつらの名前はきっとその通りだろう。というか中国の書物を英語に翻訳するというのがそもそも無茶なのではなかろうか。日本はまだしも英語で桃園をピーチ・ガーデンプレッジなんていったらニュアンスがまったくつたわっていないようなきがするのだが。しかしどうしてこうもカタコトの英語というのは面白いのだろうか。血祭りに上げろ! も日本だったらそんなに違和感なく読めるがエクスターミネートになると途端に中国風の空気が完全に薄れてターミネーターの空気になってしまう。それはしょうがないことだ。

 マーベラス・クレバー・ワン(天才の奇才)は、ニック・ネームをスリーピング・ドラゴン(臥竜)またはヒドゥン・ドラゴン(伏竜)と呼ばれている実態不明のミステリアス・サノバビッチである。かれはスリーピング・ドラゴンズ・ヒル(臥竜岡)に棲んでいて、勇者は手土産に玉でも持って万難を排して会いに行かねばならないのである。ドクター・ウォーター・ミラー(水鏡先生)がアンクル・リュー(劉皇)に、
 「あのグレート・ファキン・ボーイをスカウトしストラテジストとすれば、ハン・エンパイヤ(漢室)をリストアできよう」
 と説くのだが、そのくせジェネラル・リュー(劉将軍)が、
 「フー・イズ・ヒドゥン・ドラゴン?」
 と何度質問しても、オールド・ウォーター・ミラーは、
 「グッド、グッド」
 とリプレイするだけであった。

ウォーターミラーって面白すぎんだろうが。直訳にもほどがある。しかしこれを読んでいると、海外ファンタジーに似たような話しかないのがうなずけるな。ドラゴンと槍を持った戦士が出てきてぼかすか闘うだけだ。英語には細かい違いを表す単語が無いんだろうな。竜は全部ドラゴンだし、やりは全部ランスだし。ドラゴンランスは傑作だったが、指輪物語ナルニアエラゴン、あたりは共通してるし、というかどれもこれも妖精や魔法使いやドラゴンやエルフやドワーフだしときゃいいんだろ?っていうような作品が多すぎる。あれは単語に幅がないせいだったのかしらん。

何度読んでもウォーターミラーで笑ってしまうのだがこれを読んだアメリカ人とか英語圏の人間は三国志ナルニアとか指輪物語のように読んでるとしか思えん。というかそれ以外の読み方が、英語じゃ出来ないのだろう。ウォーターミラーが人の名前だっていうのがまずひでぇ。


孔明のことばかりだらだらと書いてきたが(この本が孔明をおっているのだから当然というかもしれぬが)劉備達もたいがいにしとけよ、というようなひどい描写だらけである。まず一貫として劉備達がヤクザ物であるという流れは決して変えていない。まぁ確かに各地を転戦して、負けまくりながら少数で移動して永い間生き残っている所から考えるに、尋常じゃない卑怯者だったに違いなく、長年少数だったことからきっと頭の悪いやつらばっかりだっただろうという推測も容易に成り立つ。曹操孫権についてはあまり意識していなかったが、そのまんまだったように思う。正直あまり覚えていない。

 「おれにはよくわかる。おれたちの稼業は舐められたらおしまいだぁ、げへへへ。野郎がまだこの世にいることのほうがおかしいよな」


くそ、だんだん集中力が落ちてきて誤字だらけだ。こなくそ、負けるか。張飛は相変わらず血を見るのが大好きというか、本当に人間レベルの知能を持っているのかあやしいというぐらいの書かれようである。そのうち言葉をしゃべれなくなって奇声しかあげられなくなっても決して驚くまい。それぐらいの低知能っぷりをアピールされている。関羽は絶対正義の名のもとに、ワンピースの海軍でもしないような残虐な行為を、自分基準の悪と正義に照らし合わせて行動するし、それが何故劉備張飛には及ばないのか理解に苦しむ。

ついに劉備一行、三回目の孔明参りである。

 「よっしゃあ! 臥竜孔明とやらを男一匹この劉備がとくと品定めしてくれん。行くぞ、雲長に飛弟! ついて参れっ」
 「おらーっ」
 「うおおおおーっ」
 「畜生、こうなったら孔明と刺し違えてやるわい」
 「おらおら張飛様のお通りだっ」
 「関羽見参!」


こいつはひでぇ、まるでカチ込みかガサ入れかヤクザの抗争突入か。三顧の礼で納得いかないのは、北方謙三も書いていた事だが、たかだか一回あったぐらいで意気投合して軍に入るかなぁ? ということである。酒見版でも書かれていたように、三顧の礼なんて別に珍しくも何ともないわけで、それに感激してはいったってのはどうもおかしい。だいたい孔明だったらわざわざ天下三分の計なんて与えないで、兄の所に行って天下二分、呉と魏で争えばよかったのに。酒見流に孔明外道説にのっとって勝手に推測するなら、より多くの民を疲弊させ、戦争を長引かせるためにわざわざ劉備を成長させたという説もありえるが。最期の方、劉備が死んでからの孔明が繰り返し魏に攻め入るのは不可解ともいえるし、民を疲弊させて苦しめてやるのが目的だったとしたら納得だがそれはあまりにもアホすぎるであろう。


さて、孔明が加入して一部は終わりとなる。次は第二部である。つかりた。