基本読書

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泣き虫弱虫諸葛孔明 第二部/酒見賢一

あらすじ
ぐんしー孔明率いる劉備組長坂橋の戦いを脱す。


感想


あぁ・・・・諸葛均が簡擁に毒されていく・・・。簡擁が誰からも好かれる、なかなか調子のいい人間だったというのは正史でもその通りだったようだが、酒見版ではみんなから好かれる=下ネタを連発するという定義だったのか。簡擁対して出てこないのにその存在感たるや他を圧倒している。ほんとに少ししか出てこないのだがその全ての場面で下ネタを言おうとしており、または言っており、簡雍というよりも下ネタと読んでもいいぐらいの下ネタ要因である。

 簡雍の下ネタはマンネリだと糜竺が因縁をつけたから、簡雍はとっておきのとても文字にはできない凄いネタ(ニンフォアマニアック宮女の宦官あそび、といったもの)をスパークさせたため、一同、にやけた笑いを通り越して、
 「そんなことを言っては人間としてお終いだぞ、お前・・・」
 と顔面を蒼白にして口をふさいだことも知っていた。


いったい顔面を蒼白にして口を防がせる下ネタというのはどのようなものか。ニンフォアマニアックスってなんじゃい、想像すらできんわ。しょっちゅう下ネタをいっていることにされているが、実際その下ネタが書かれているのは諸葛均に無理やり言わせたものだけで、自分自身で言っている描写は全くないといっていい。ひょっとしたら程度の低い下ネタしかいっていないのかもしれないが、書かれていないのでその下ネタ力は未知数である。恐るべしニンフォアマニアックス

下ネタがうまくいえない諸葛均に対して


 「あの程度の言葉ではご妻女も失望しておるでしょう。だいたい、なんですか、あの言い方は。ねえちゃんなどというのはチンピラまがいでほめられぬ。ただ、『そこの女!』と呼べばよいのです。また男なら胸などと誤魔化さず、『おっぱい』と吐き捨てるが当然。しかも見せてくださいでは己が男ではなく子供だと、値踏みされてしまう。あそこは、『さっさとさらけ出せ!』というべきでしたな」


一連の流れにするならば そこの女! おっぱい! さっさとさらけ出せ! といえばよかったのですね。
簡雍まじド変態っす。最期の方諸葛均ちょっと自信出てきているみたいだったし、これは次の巻あたりでところかまわず下ネタを飛ばす諸葛均がみれるかもわからぬ。


話変わって驚くべきなのは呉勢が全員広島弁を喋るということである。特に何も書かれていなくても広島弁を喋るというだけでまるでヤクザか何かのようなものを想像してしまうのは決して広島弁が怖い言語だということではなく、単純に酒見賢一広島弁を必要以上に恐ろしいものとして書いているからであろう。とにかく呉勢がしゃべる場面は全部怒鳴り合っているかのように見え、必要以上に方言を使うような言い回しを取りつづけ、非常に恐ろしいのである。歴史的に見ても孫権はめっさ根暗で陰湿なやつのようになるのが常であるが、広島弁と相まって陰湿というよりも計算高い経済ヤクザのような体を為してきている。何故こんなに広島弁が怖いのだろうか、イントネーションというかイントネーションの意味がよくわかっていないのだが、上下するのがいかんのではないだろうか。

じゃ↑けぇ↓のぉ〜↓みたいな。さらにいえばこの、のぉ〜みたいなぉが、伸びるぉが、なんともいやらしい感じである。怒るとその怖さもひとしおである。仁義なき戦いの広島ヤクザが大量にであってじゃけぇのぉじゃけぇのぉたまとったらんかぁぃ! みたいなそんな間違った方向のイメージがいまだに定着しているのかもしれない。文字にするとそれが顕著なわけで、実際きいたらそうでもないのかもしれぬが。身近に広島弁を喋る人間がいるからあまり意識したこともない。


魏も結構描写されておった。特に曹操の人材募集癖は手をかえ描写を替え繰り返し描写されており、曹操も立派な変人扱いである。夏侯惇も、初めて殺人をおかしたときのことが書かれており、十四歳のときキレて学問の師匠をぶっ殺したという。今も突然キレる若者が! とかゆとり教育のせいでこんなにたくさん突然キレる子供ができてしまったぁぁぁ! とばかりに騒ぎ立てているが、この時代からキレて先生を殺すなんてのは当たり前だったようである。むしろ今の子供はよく我慢しているのではないか。1年に1回か2回、そういった事件があるぐらいである。しかも夏侯惇は一応親にもらった身体をもったいないからという理由で自分の眼玉を食らうようなやつである。いちがいに先生を殺したからと言って悪い奴だと決めつけるのもない。まぁいまこの時代に自分の目玉が使い物にならなくなったからと言って食うような十四歳がいたら精神病院に連れて行かれるだろうが。


この巻最大の見せ場でもある、長坂橋の戦いは滅茶苦茶長い。それはもう、長い。ロングロング。普通の三国志では、それほど長くは書かれないであろうが、それは多分大衆というものを書くのが非常に大変だからだろう。なにしろ十万という民衆を連れているのである。文字にしてしまえば軽い感じではあるが、過去に十万の民衆の大移動というとそうそうあるものではない、はずである。歴史的大事件といってもいい、戦いが、ではなく十万の民衆が一度に移動するのがである。ゲルマン民族の大移動ぐらいしかしらない。って規模が違うか。ひょっとしたら十万ぐらいの移動なら結構あったかな。


しかし十万規模の民衆を描写しようとしたら、問題は数限りなくありいちいち書いていたり、道のりを描写していったらとんでもない長さになるのはこれ必然である。カオスレギオンを書いた冲方丁も群衆の移動を書くのは大変苦労したとあとがきで書いていたような書いていなかったような。

 「さようでございます。徐元直の筋の通らぬ混乱した話をしんぼうして聞くに、諸葛亮がまことに途轍もない外道であることが判ってまいりました。劉備は人畜無害でも、その諸葛亮が最悪の陰謀家であろうかと。どうやって民を連れ出したのかは分かりかねますが、諸葛亮が十余万の民が死のうが生きようが毛ほども気に病まないおそるべき鬼畜である可能性は大きゅうございます。でなければ危険を承知の逃避行に民衆を連れだせるものですか」

ひどい言われようである。まぁほんとに民衆を盾にして逃げようとしたのならば、外道極まりない行為だがその辺よくわからない。この長坂橋の戦い、よくわかっていないらしくむちゃくちゃな内容となっている。黄氏の機械歩兵に負けず劣らず。ここでは劉備、人畜無害などと書かれているがのちにド外道的行為を何のためらいもなく行う。まったく信用ならない。長坂橋の戦いで関羽はどこからともなく劉備達に合流し、趙雲曹操軍十万に一人で突っ込み二日間休まずに戦い続け、穴に落ちたら何故か天から光がふってきて反重力装置か何かで宙に浮かびあがり助かって、張飛は橋の上で曹操軍十万を一人で足止めし続けた。劉備軍大活躍である。劉備はその仁徳をいかんなく発揮し簡雍はその下ネタっぷりを放出し、張飛趙雲はその鬼神っぷりを見せつけ、関羽はどっかいっていた。孔明がしたことといえば作戦をたてたものの失敗しただけである。どうもこのあたりが、この巻の孔明の影の薄さの原因であるといっていい。民の大移動も孔明の策としてしまえばド外道っぷりにみがきがかかってそれはそれでよかっただろうが、それもあいまいな態度をとってしまったがために孔明の存在価値が微妙に失墜している最中なのかもしれない。


火計だけがこの時代における最大級の効率をあげる人殺し方法に他ならないことは闘いを一つ一つ見ていけばわかる。どこにいっても何万もの兵をターミネートした戦場では火計が使われており、現代における核ミサイルといってもいいぐらいなのにどうして誰ももっと火計を用心しないのだろうかと思っていたのだが、用心してもやはりどこにでも隙というものは生まれてしまうのだろう。火計さえなければこの時代の死傷者はもっと少なくなったはずである。


関羽張飛趙雲は一騎当万の殺戮機械という意味のわからない称号を持っているが、劉備もその容姿だけでいえば化け物だなとあらためて読んで思った。膝まで届く手、自分の目でみえるほどでかい耳っておよそ人間ではない。なんでこんな現実離れした肉体に改造されなくちゃいけなかったのだろうか。作中で何度も猿と呼ばれるようにどう考えても、膝まで届く手を持った男は猿としか考えられん。今まで読んだ三国志も、一行膝まで届く手、と書いてあるだけでそりゃねーだろ、と思ってもそれ以降その描写が全くでないので、忘れて行ってしまうような設定なのだがこうしてあらためて何回も書かれるとそりゃおかしい! と叫びたくものである。


一番笑ったのは、趙雲劉備の子どもを命からがら助け出してきて、ご夫人を助けられなかったーと泣き叫ぶところの劉備の反応である。

 すると劉備は何が気に入らないのか、受け取った瞬間、くわっと睨み付け、阿斗を思い切り地面に叩きつけたのであった! 略
 幼児殺害が流行しているとはいえ、せっかく趙雲が命を懸けて救ったというのに、ひどすぎる仕打ちである。
 劉備は、、これもかろうじてキラリと光る仁義のせりふなのか。
 「このクソわっぱめが、おまえのせいで危うくわしの大事な子竜を失う所であった!」
 と吐き捨てた。スパルタ帝王教育の手始めではなく、明らかに残忍な虐待もしくは未熟な親による異常行為であり、もし死んでいたとしても、
 「あれ、動かなくなりおったぞ。ダーッハハハ、弱い、弱すぎるわ。これでは乱世に生きられぬ」
 とか言って、そのへんに埋めたに違いない。現代なら即逮捕である。

劉備さんマジ外道っす・・・。しかし、仲間を思いやる気持ちや、民衆を思いやる気持ちを最大限効果的に見せるためならば何をやっても許されるのが三国志世界の劉備なのであるとこのエピソードがものがたっている。たとえわが子を地面にたたきつけて殺そうが劉備が徳の人であることに変わりはない。どうも中国では、子は親が生み出してやったものなのだから殺そうがなにしようがいいという常識があったらしい。だから周瑜は息子を川に突き落とし曹操は息子を身代わりにして逃げてもいいのである。子供は親の道具なのだから。なんて恐ろしい中国の常識。まぁ劉備からすれば子どもは何人もいたにちがいなく、そのうちの一人が死のうがどうでもよくて一人しかいない趙雲が死ぬ方がよほど困るというのは論理的に納得できる答えであるが、実際のところ劉備の仲間思いというか、臣下と劉備がいかに強くつながっているかを示すエピソードにすぎないのであろう。


しかしとんでもないエピソードが次々と飛び出してくる。張飛が大声をはりあげたらその音で橋がぶっこわれたり、趙雲と阿斗が光に包まれて宙を移動したなどというのはもはやファンタジー。一人で一万人相手に出来る時点で、指輪物語を100ファンタジーとして30ファンタジーはいっていたが、上の二つのエピソードを加えたら十五パーセントずつ増えて60ファンタジーはいってしまうのではないか。

いやしかし面白かった。新巻は! 新巻はまだか!