基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

言葉使い師/神林長平

エピグラフ

マリオネットたちに愛をこめて

人生とは記憶である
だれの言葉だったか
もう忘れてしまった

感想

うーむ、マンダム。いきなり酷い話から始まる。スフィンクス・マシンだ。創造とは何か、芸術とは何なのかの神林長平風アレンジだ。いやしらんが。神林長平の短編というものは、SFの根っこの部分をしっかり押さえていると思う。現実世界ではしばられて出来ない、問題を世界観を全く作り変えることによって、置き換えることによっていかようにも料理出来るというSFの特質が。甘やかな月の錆では、大人になれない子供、という現代でもよくいわれる問題をそのまんまSF設定にしてしまい、本当に大人になれなくしてしまったなんていうのはその典型である。言葉とは何か、を問うためにわざわざ言葉を使えない世界を作ったり、こう考えてみるとやりたい放題というほかない。


しっかしこうあらためて考えてみるに、神林長平作品に出てくる夫婦っていうのはどいつもこいつも破局寸前の夫婦ばかりなような気がする。いがみあっているか、疎ましいと思っているような家族しか出てこないぞ。イルカの森の主人公は妻と娘を愛していたようだが、実際に妻と娘が出てくる短編ではない。実際にキャラクターとして存在している妻がと関係がよいという話を読んだ記憶がない。あったかもしれないが。それにしたってこの短編での妻の扱いはひどい。バーで勝手に男をナンパするような女房ならそれ程でもないが、それだけじゃ飽き足らず無重力空間に放り出されて死ぬ運命を背負わされているとは。なかなかむごいことをする。かつて野田昌宏氏はSFは絵だねぇ、という名言を言ったという。正直な話、意味はわからないが、なんとなくおお、うまいこと言ったねぇ、という気分にはなる。限られた世界で、だけどそれ故にどこまでも自由な表現が出来る、ということだろうか。まぁそれはいい。


ふむん、芸術という行為が、脳の中身を自分で実際に確かめる行為だ、というのはなかなか面白い話である。自分で見て、触る事が出来ないからこそ芸術、創造という行為を使って現出させる。そしてその分、脳みそは減る。誰だって脳みそをすり減らしながら生きていくんだ。じじいやばばあになったら脳みそは、十代の70%の大きさにまでなっちまう。たぶん。


無重力下での死は確か結構文字にするとつらそうな死だったはず。窒息は当然として、一瞬でも息を吸いこもうとしたら気圧がどうたらこうたらで肺がつぶれるんじゃなかったか。それに多分凄く寒いだろう。どっちにしろ息が出来なくなってすぐ死ぬから寒いのはどうでもいいのかもしれないが。

  • 愛娘


宇宙で子供を作ると、女の方の体が老化し、極限まで老化したあと急速に元に戻り、妻が娘になっちゃいましたー という話。割と滅茶苦茶な感じだ。な、何故宇宙で子どもを作っただけでそんなことに? と唖然とした。最後のオチは思わず笑ったが。こんなことが出来れば、世代交代を繰り返さなくても一人の個体だけで延々と宇宙を旅出来そうである。しかも記憶を引き継いで、だけんども男がその場合ネックだのう。精子さえあれば男なんていらんわい。産む機械、なんていうだいぶまえの発言があったが、それをいったら男だってただの産む機械だもの。この話、単純に面白かったが何が言いたいのかはよくわからなかった。ほとんど設定の話に終始していたし、あるいはこの発想を伝えたかっただけか、とも思うが。無駄なのは、作者が何を伝えようとしているかをわざわざ考えようとする行為だろうか、なーんにも伝えたい事なんて無いのかもしれないのだ。

  • 美食


このオチはSFホラーとして通用するだろう・・・。いや、サイコキラーを出現させれば何でもホラーになると思ったら大間違いか?
これも結局は、料理が得意な人間を愛していたのか、それとも妻という人格を愛していたのか、という問いだろう。この場合妻じゃなくて料理が得意な人間を愛していたのが言うまでもなく明確であったからか、押し問答もなく唐突に物語は幕を閉じる。妻による夫の殺害である。しかもその肉を夫に食べさせるという鬼畜きわまりない行為である。水滸伝の魯たつやリンチュウはがっはっはと笑いながら自分らの体の肉を食っていたがあいつらはやっぱり尋常じゃないと思い知らされた。あれを読んでいた時は普通だと感じていたが、冷静にこうやって考えてみるとまともな人間のやることじゃない。自分で自分の肉を食うなんていう摩訶不思議な事が出来るのも、SFならではといえる。自分の目の前で自分のコピーを壁にたたきつけられて肉に料理されるとかドンダケェー。そんでもって今まで食っていた肉も実は人肉だったと気づいて大慌て。しかし物凄い舌の持ち主として書かれているのに鶏の肉と人肉の味の違いも区別できないのかしらん? そして主人公が、自分のコピーの肉を向かっていう

 「脛かじりめ」


親の脛をかじる、なんていう単語の意味なんてどこ吹く風。ほんとに親の脛を食っているんだから噴飯ものである。なんてひどいオチ。スフィンクスもこの短編もオチが猟奇的すぎる。まるで絶望先生のネタのようだ。


  • イルカの森


スカイ・クロラでもそうだが、この作品のパイロットもまた、空を地上とは全く別の世界としてとらえている。そりゃいうまでもなく地上とは全くの別物だというのは当然なのだが、そこまでいうからにはやはり、地上と空を別の世界としてとらえる根拠があるのだろう。たとえば人というものは、立ちションするときでも、サイドからヒトがこないかきょろきょろ見渡しても意外と上は見ない事が多い。上は人にとって、意識しないかぎり見上げることのない空間なのではないか。普段意識には上らない世界、それが空であるといえるのではないか。反対に下を意識することはあるのかないのか。地上というものは、あって当然だし、無いというのはおかしいから意識するしない以前の問題なのかもしれない。常に地面とくっついて生活する人間だからこそ、地面というものが存在しない空は海の中以上に別世界に感じられるのかな。それからこの霧の中に入って、また出てきたらそこは別世界だったって、なんだか似たような場面が戦闘妖精雪風にもあったな。霧があけたらそこは別世界だったって冗談にもならんが。ソーンがボイドにぶん殴られた時、絶対に親父にも殴られたこと無いのに! っていうぞ! というような感動的なシュチュエーションだったにも関わらず思い切りぶん殴りすぎたせいか即気絶していて何のセリフもなかった。そりゃ本気でぶん殴れば気絶するわな、と認識した出来事だった。だんだんと色々な事を忘れていくっていうのは割とありがちなネタのようなきもするが、実際アルジャーノンに花束を田中ロミオ人類は衰退しましたぐらいしか知らないな。

 「さあ行こう。人生は夢なら、いい夢を見なくては損というものだ」


なんにしろ楽しいにこしたことはないよね。


  • 言葉使い師


言葉をテーマに据える中でも、もっとも直接的に言葉について言及している作品でもある。なにしろ言葉というものを特別に危険なものだと設定し、言葉を使う人間を犯罪者として死刑にするような世界なのだから。そんなに危険なものなのか! と自分も言葉を使っているくせにとんでもなくびっくりした。言葉は一つの現実であり、一個の生き物である、という考えはミームに通じるものがある。言葉というか、ミームの場合は単語か? いや言葉か? 耐久力を持った、不変性を持った言葉ならば長く生き残るし、くだらないような言葉は耐久力が弱く次第になくなっていく。エネルギーを与えれば勝手に増殖する。言葉を発した本人と、それが伝わった人の間ではその言葉が持つ意味は全く違うものとなる事もあり得る。ふむん、だがなんでそれが言葉が危険だという事につながるのかしらん? テレパシーを使ったからといって人間と人間のいざこざが無くなるわけじゃあるまい? もしくは、言葉に世界が乗っ取られる事を恐れたのか? 言葉が世界を乗っ取る、というのも想像しにくい話だが。噂が一人歩きする、という表現はあるが、あれも言葉が勝手に動き出しているに等しい。当初それを作り出した人間とは全く別のものとなって人々の間を駆け巡る。そういうことは確かにある。テレパシーならば、直接伝えられるからそういった誤解はなくなるだろう。確かに小説というものは、書かなければ無限の広がりを持っているといえる。いくらでもその内容を空想出来る。だが、実際に書き始めると、物語の制約がはじまる。そこは倉庫の中であった、なんていう一文からはじまったらそれだけで世界観はある程度固定されてしまう。書かなければ無限の広がりを持っていたのに。さらに書きすすめれば、物語の制約はどんどん増えていく。広がりが無くなっていく。終盤にもなれば、物語はある程度あるべき結末に向けて動き出すことになる、そういうことを森博嗣もよく書いている。書きだしが一番難しい、なによりも自由だからだ、終わりが一番簡単だ、あるべき結末に向かっていくだけだから、と。ストーリーは書き始めと書き終わりが一番難しいというが、この話を聞いていると書き終わりは別にたいしたことないんでねーの? という気分になってくる。それともあれかなん、自分の意図する方向に強引に話を修正する力技が難しいといっているのかな。

  • 甘やかな月の錆


全く関係ないが神林長平の顔は狐に似ていると思う。ちょっと不気味だ。こんな作品ばっかり書いているのも当然というような顔をしている。

イルカの森が、現実から逃げて、夢の中で楽しく生きればいいさ、というのに反してこちらはあくまでも現実を生きろ、という話である。あくまで現実に反抗し続ける。あまりにも雰囲気が違うのでまるで思い至らなかったが、これはマトリックスと似ている。いっぱんぴーぴるは何も知らされずに、同じ時間を繰り返す。一部の、老いの世界をしった人たちは薬によって自我を保ち、警察から逃げ回る。どうせ人生とは夢のようなものなのだから、楽しく生きればいいといって同じ時間の繰り返しの中で生きるか、それとも老いの世界であくまで理想を求めるか。結局最後は勝ったのか負けたのか、よくわからない結末だがこれはどうなんだろう。ドローかね。愛していた人は手に入れたものの、老いや記憶は取られてしまった。相手の希望は100パーセントかなえられて、主人公側の希望は50%しかかなっていない事をみると完全敗北かな。しかし主人公の名前が胡夢だとは皮肉な話だ。胡蝶之夢か。はたして老いを知らずに永遠に無限ループを続ける世界が夢か、それとも老いてしんでいく世界が夢か。

この短編集を思い返してみるとバッドエンドかどうか微妙なものが多い。スフィンクス・マシンはグッドでもバッドでもないし、美食は完全なバッド。曖昧だ、曖昧すぎる。