基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

変身/カフカ

 ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。

爆笑である。しかも虫になっている自分を見て一番最初に思う事が、こりゃいったいどうしたことだ、というのはアホとしかいいようがない。人はあまりにも異常な事態二遭遇するとかえって冷静になるといったのは誰だったか。なるほど、確かに朝起きて虫になっていたならば、なんやねんこりゃ! としか思わないかも知れぬ。


この芋虫がチョウになって大空に羽ばたいていくという壮大なラストだったら最高だったのだが、なんだろうこの悲惨なラストは。


解説にて、さまざまな解釈が提示されているが、そのどれもが滑稽にしか思えない。マルクス主義的に解釈し、などなど書いているがアホなの? バカなの? と聞きたいぐらいである。いや、実際そうだよーんとかカフカがいったらそれはどうだかしらないが。


カフカのそれまでの生涯から作品を追っていこうとする解説もあるが、カフカが自分で言い出した事ならまだしも、他人がとやかく言うことではないのか。意識的にせよ、無意識的にせよ好き勝手に自分の作品を自分の生涯と結びつけられてさぞやカフカもご立腹ではないのか。そもそも作家の書いたものを完全に解釈出来ると思っている解説の傲慢さに腹が立つ。いや、この作品の解説がそうだというわけではないが。作品の解釈に関して、他人が〜〜は〜〜である! などと断言しているのを見るたびに何故そんなに確信出来るのか、と不思議に思う。論文ならそれでもいいだろうが、解説がそういう一本調子だとそれが唯一絶対の真実みたいになってしまう。


できるならば、多々ある解釈のうちの一つの道を示した、ぐらいの謙虚さがほしいものである。


とかなんとか書いておきながら、自分の解釈を書いておくと、これはギャグ小説じゃないのだろうか? あまりにもアホすぎて真面目に読むのがはばかられるぐらいなのだが。そこらの面白くないギャグ漫画よりよほど笑わせてもらった。こんなアホなものに深淵なる解釈を求めようとしているのを見ると、ギャグ漫画から崇高な哲学を求めでもしているかのようで異常に滑稽に感じてしまうが。


恐らくこれほどに、文学として高い評価を受けているからにはギャグなんかでは決してなく、もちろん色々な意味が内包されている小説なのだろうが、個人的に言わせてもらえれば、朝起きて、虫になってたら面白くね!? というようなシンプルな発想から生まれたギャグ小説としか思えない。さらに書いた人間がほんとにその辺のバカな中学生ならよかったものの、文章力もある立派な大人が、これでもかというほど忠実に書いてしまったがためにこんな作品になってしまったのではないか。


そもそもでかい虫がはいずりまわっているところを想像するだけで気味が悪い。早く死なないかな、と思いながら読んでいた。ムーミンママは、姿が変わったムーミンを見ても、ムーミンだとちゃんとわかってあげて抱きしめたらムーミンは元に戻ったがこっちじゃザムザはひどい扱われようである。それが当然の反応であって、正直ムーミンのような嘘臭い根拠のない愛は、展開の積み重ねあってはじめて効果的に表れてくる物で、いったいその愛が発揮されるまでのあいだにムーミンムーミンママとのあいだにどれだけのやりとりがあったかあってはじめて実感もわいてくるものだという気がする。突然ムーミンの体がかわって、それがムーミンだとわかった母親、何故か? そりゃ家族だよ、じゃ意味がわからないし拍子ぬけである。過ごした時間が長いというだけじゃまだ足りない。それならばムーミンのまわりには付き合いだけなら長い奴らがたくさんいるのだから。


一番気に喰わないのは、家族だから〜とかいう胡散臭い概念である。家族だから何をしても許される、家族だから離れても絶対に大丈夫、家族だから信じあえる、家族だから〜というセリフのあとに続く言葉にろくなものがない。家族だからといって絶対な物などないだろう。


虫になってしまったカフカに対する、家族の反応に、妙にリアリティを感じる。常識的に考えれば人間が虫に変わることなどないのであるが、それが許容されているということは不思議だ。あるいはハリウッド的なお約束で、そういう細かいところはつっこまないように、というあれがあるのだろうか。


作家の力量の中に、いかに現実じゃ到底ありえないようなことを作品世界では違和感なく溶け込ませるか、という要素は当然入ってくるだろうが、変身はそういう意味じゃどうか。
何の違和感も持たなかったというならば嘘になるが、ザムザが虫になっていることも自然に受け入れていたように思う。読んでいて。



今まで変身のあらすじをほとんど知らなかったので、ラストがどうなることやらとわくわくしながら読んでいたのだが、あまりにもあっさりとしていて拍子ぬけだ。読んでいる最中はひょっとしたらザブザはまた人間に戻るかもしれないな、と思ったが、そんなことあるはずがない、と読み終わった今ならわかる。


基本的に物語ってのはバッドエンドオチの方が労力的には、楽なはずである。何しろ虫になったザブザを人間に戻す方法なんてまるで見当もつかないし、仮に人間に戻ったとしても障害が多すぎる。それならばあっさりと殺しちゃった方がよほど自然で、楽だ。もし人間に戻そうとしたら、魔法のランプか魔女か、何にしろそれなりの奇跡を要求するだろう。


いやしかし10年かけて太ったのならば、10年かけないとやせないというような言葉があるように(自分で今創った)朝起きたら虫になってたんならそのうち、また朝起きたら人間に戻っていてもなんらおかしくないのではないか? 人間なんて原子かなんかで出来ているのだし、寝ている間に色々入れ替わって全く別のものになる可能性もなきにしもあらず!そんなことしたら結局この話なんだったの? ということになりかねんが。


死ぬのなら死ぬのでいいが、もう少しなんとかならなかったのだろうか。死ぬ場面はなんともいえないし、そのあとの家族がウフフアハハとやっと肩の荷が下りたね、これからは希望ある未来が待っているわよアハハなんていうのは、これまたなんともいえない。ザブザマジ無様、とは思うものの、こいつらはこいつらでなかなかすごい奴らだよなと思う他ない。 
ザブザの死亡届とか出さなくていいのだろうか。

 「放り出しちゃうのよ」と妹が言った。「それ以外にどうしようもないわ。お父さん。これがお兄さんのグレーゴルだなんていつまでも考えていらっしゃるからいけないのよ。あたしたちがいつまでもそんなふうに信じこんできたってことが、本当はあたしたちの不幸だったんだわ。だっていったいどうしてこれがグレーゴルだというの。もしこれがグレーゴルだったら、人間がこんなけだものといっしょには住んでいられないというくらいのことはとっくにわかったはずだわ、そして自分から出て行ってしまったわ、きっと。そうすればお兄さんはいなくなっても、あたしたちもどうにか生きのびて、お兄さんの思い出はたいせつに心にしまっておいたでしょうに。それなのにこのけだものときたらあたしたちを追いまわす、下宿のかたがたを追いはらう、きっとこの家全体を占領して、あたしたちを表の道の上に野宿させるつもりなのよ。ね、ちょっと、ほら、お父さん」


なんという自分に都合のいい解釈。だがグレーゴルが、言葉をしゃべれない以上それは事実となってしまうのだろうか。少なくとも、グレーゴル以外のところではそれは事実になってしまうに違いない。真実は複数あるが、事実は1つしかないというがこの場合事実が2つあるといってもよいのではないか。なぜなら、妹たちの事実は決して崩れることはないからだ。グレーゴルが言葉をしゃべれない以上、事実は2つになってしまう。


ちょっと最初はグレーゴルに心を許しはじめたように思えた妹だったが、自分に不利益がこうむると分かればこうやって態度を反転させてしまう。人の世の不条理よ。ただ妹を決して非難することはできない。グレーゴルは虫で、自分たちとは違うもので、居ると邪魔なのだから、排除するのは当然のことだ。むしろそこで排除しないという選択肢は存在しえない。


このめんどくさい話を読む時に、余計なことを考えるのは、全てやめた。何故虫になったのか、虫が何を意味しているのか、書かれていない事を推測することをやめようと思い、最終的にそうなった。ようするに解釈をやめた。どうもそれはこの作品のまっとうな楽しみ方を、8割方失わせてしまう行為だったようで、ギャグ小説として楽しむしか道が無くなってしまったようにも思うのだが、それはそれでよかったと感じる。これを真面目に解釈するつもりのある人には、この作品について語り合うのは楽しいものとなるかもしれない。