基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

レッドサン ブラッククロス〈1〉合衆国侵攻作戦/佐藤大輔

 「我等は増上慢極まりない民族なのだ。何か不愉快なことがあればたちまちひねくれてしまう。だからこそ、諸外国から重んじられる政府の登場をひどく望んでいる。そして、それを実現させるためならば、大きな犠牲──莫大な出費を行っても悪くはないと考えている」
 ──オットー・フォン・ビスマルク(ドイツ第二帝国宰相)


合衆国侵攻作戦とかいいながらまだ侵攻してないやん・・・。
いや、侵攻作戦としか書いてないからこれでいいのだろうか。
それにしてもなんつーヒキで終わるのだ。レッドサンブラッククロス。二巻を読まずにはいられない。そもそも、章ごとの終わりの一文は、どれもこれも最高と言っていいヒキで終わるのだからこれも、佐藤大輔の持ち味というべきか。


征途と同じく、これまた本編となる時代より、五十年ほど進んだ未来のプロローグから始まる。しかもそこでは、第四次世界大戦がはじまっている。はたしてそこに至るまでに、どんな過程があったのか。わくわくが止まらない。


架空戦記らしく、日露戦争までさかのぼり歴史改編を行っている。乃木大将が戦死しているし、日本側有利で終わるはずだった交渉が、陸軍の力不足が露呈して御破算になっている。それにより日本の中で、陸軍への不信感が高まり海軍主導の軍編成となっている。経済の方はよくわからないが、このあとの戦争の展開によって日本がうまく立ち回り経済的に大成長を遂げたらしい。さらに、日英同盟が依然として行われている。日本についてはおもにこんなところか。


史実では打ち負かされる形になったドイツだが、アメリカが参戦していないなどのもろもろの条件がかさなった結果、危うい戦争をうまく立ち回り第三次世界大戦の口火をきる。恐ろしいのはヒトラーである。とどまることなく侵略をやめようとしない。

 独裁国家とは資本金の少ない中小企業のようなものだ。一度戦争をはじめたら、世界中にその相手がいなくなるときまで闘い続けねば、いずれは内部崩壊してしまう。独裁者の正しさを常に外国との関係で証明しなければならない宿命を負っている。たとえ負けるとわかっていても、進み続けなければならない。

カエサルの時代から独裁者ってのは変わってないなぁ。独裁者というか、英雄というかの違いはあれども本質的にはどちらも同じである。独裁者というよりも臨機応変な決定を求められる時というのは、確かにあるといえるが、それはあくまでも、その時必要というだけで長期的に見ればガンにしかならない。仮にその個人が卓越した能力を持っていようとも、所詮その個人の代で終わりである。


しかしヒトラーの演説というのは、今あらためてみても凄いというほかない。まったく関係ない自分でさえ、ハイルヒトラー! と叫びだしたい衝動にかられるぐらい。あれを当時、実際に、生で聞いていた人たちならばヒトラーについていこうと思っても全くしょうがない。

 「……夢からさめたような気分で周囲を見まわすと、驚いたことに聴衆の態度は一変していた。……つい1時間前までは……ありとあらゆる罵詈雑言を投げつけた大衆の抑えられた苛立ちが、深く感動した連帯感に変わっていた。人々は息をひそめて耳をそばだて、ヒトラーの一語一語を飲みこんでいた……。近くの一人の女性は……ある種の献身の陶酔に浸っているかのようにヒトラーの顔を凝視し、もはや忘我の境にあって、ドイツの偉大な未来に対するヒトラーの盲目的な信仰の魔力に完全にとりこにされていた……演説はやがて『言葉のオーガズム』ともいうべきクライマックスに達した。……聴衆は熱狂的な拍手を送り、テーブルを叩いた。」
           エルンスト・ハンフシュテングル

第三次世界大戦をシュミレートするのに、一体どれだけの知識が必要なのだろうか。経済についても考えなければいけないし、歴史改編型ならば、その時代にいた著名な人間達はいったい何をしていたのかを考えなければいけないし、もちろん政治、陸海空全ての動きを把握していなくてはいけない。架空戦記作家がどいつもこいつも軍オタだというのは間違った話じゃあるまい、というか、架空戦記を書こうと思ったらいやがおうにも軍オタの烙印を押されてしまうに違いない。


本書の半分近くは、設定の説明+地図などであった。
ということは、作者はその残りの半分で自分の持ち味というか、特徴を出していかなきゃいけないわけだ。世間的に有名な架空戦記作家があまり出ないのはそういう理由からじゃないだろうか。それに要求する知識があまりにも多い。本書だって、123ぺージまで、今までの日本の歴史とこの本の歴史がいかに違うかを延々に説明しているだけである。多少なりとも知っている人間ならばともかく、まったく知らないのなら歴史の勉強をしているような感覚に陥るのではないだろうか。さらにいえば、怒涛のような迫りくる兵器描写である。戦闘機から始まって、戦艦、戦車、多種多様な名称が出てきて、わけのわからない器具の説明が延々と続き、まったく理解できない。軍事好きというのは恐らくこういうものを全部把握しているのだろうが、凄いという他ない。もし第三次世界大戦が起こったら、佐藤大輔を作戦本部に置けばいいんじゃないか、と佐藤大輔の本を読むたびに思う。まぁ第三次世界大戦は核が飛ぶだろうから作戦が必要なのかどうかは知らないが。有川浩の海の底では、軍オタを実際に軍が活用する描写があったような気がする。


だが、架空戦記が本当に面白くなるのはこういった雑多な説明が全部終わった所からであり、戦闘が実際に始まってからはもうわけがわからなくても全然かまわない。本格ミステリでいえば、条件が全部出そろったところであり、三国志であれば三国対立が本格化したところである。本書でいえば100ページから、雰囲気は一変する。ズラっと並んで順繰りに出てくる戦艦を紹介していく場面だ。正直いって、説明はほとんどわからない。長門とか大和とか、そういうのはもちろん名前は知っているが、形が頭に思い浮かんでくるような感じではもちろんない。それなのにひたすら描写され続ける艦の描写に圧倒されまくりである。少しだけ引用すると

 先頭を進むのは第一機動隊の旗艦翔鶴瑞鶴の二隻。第一航空戦隊を編成する閉鎖型格納庫、強度甲板方式の重装空母姉妹だ。甲板上に、英国からの技術供与によってようやく実用化されたばかりの蒸気カタパルトを装備したラインがはっきりと見えた。


とかなんとかいわれたって、さっぱり情景は思いうかんでこないのだが、凄いということはわかる。蒸気カタパルトを装備したラインってなに!?翔鶴瑞鶴てなに!? とか疑問は次々とわいてくるのだがしょうがない。そして、何故か艦を、性別であらわすときには絶対に彼女とか、姉妹とか言うのである。戦艦に恋しているのはおかしなことではない、と主張するかのごとく。さらにいえば、艦はまだいい。何しろ日本語名がついているのだからわかりやすいといえばわかりやすい。新キャラが出てきたと思えばいいのだから。困るのは戦闘機や、戦車である。Ju-88とか、とにかく記号的すぎる。戦闘機でも、スツーカとかちゃんと名前のついているのはあるのだから自分が知らないだけだろうか?スツーカも、Ju-72とかの数字はついているはずだし。日本の戦闘機は紫電改みたいなわかりやすいのだが、他国のはなんとわかりにくいことか。爆弾にはリトルボーイとか、本書でいえばカエサル、なんてつけたりしているのに戦闘機とかはなぜか記号である。そういや、ドイツで核爆弾にカエサル何て名前をつけるのはヒトラーを揶揄しているのか。


スツーカも出てくる。スツーカ(笑)などとネット上で有名になっている。詳細はよくわからないが、たぶんルーデルの話であろう。ふむ、そういえばレッドサンブラッククロスには、ルーデルは出てこないのであろうか。 第二次世界大戦中のドイツ空軍パイロットで、急降下爆撃でソ連軍の戦車を500輌以上、装甲車・トラック800台以上を破壊した英雄。足を吹っ飛ばされようが、敵地に墜落しようが、そのたびに蘇ってひたすら戦車を破壊し続けた、あの変態ルーデル。
彼が出てきたらその特徴性故に主役をかっさらってしまうだろうから、出ないのかもしれない。

 <ヴァレンシュタイン>ならびに<フリードリフ>の名の下に、全世界の独軍が行動を開始したのは、それから一〇時間後──合衆国東部時間午前四時の事だった。
 第三次世界大戦が始まった。

毎度毎度、章引きのセリフが印象的すぎるのだが、これは特に凄い。うぉぉぉはじまったぜぇぇぇと興奮してどんどん読み進めるのだが、なんていうところで幕引きがされるのだろうか。ドイツから核爆弾が発射されたところで幕引きとは。いったい核が炸裂したアメリカはどうなるのか、次を読まずにはいられない。