基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

流れよわが涙、と警官は言った/フィリップ・K・ディック

相棒を見つけたような気分だ。すばらしい。この先どれぐらいの時間がかかるかわからないが、いつかフィリップ・K・ディック作品をすべてよむことになるだろう。気に入る事がわかっていたからこそ、今まで読まなかったのかもしれない。

神林長平作品がフィリップ・K・ディックにたとえられる話があるが、確かによく似ている。その話を聞いてから、ディックの外見も、神林長平と同じく線の細くて弱そうな感じなのだろうと想像していたのだが、ひげ面で、まるでクマのような顔をしているではないか、なんとも意表をつかれた。もちろん似ているといっても、外見が似ていると言っているわけではないのだから当然なのだが、こういった人間観察の上に成り立つような、深い思索の上に浮き出るように書かれた物語の作者は例外なく貧弱そうな人間だと思っていた自分の固定概念は覆されたわけである。

最初は訳がひでぇ、浅倉久志呼んで来い浅倉久志、と思っていたものだったが50ページも読んだら慣れていた。

後ろに書いてある本のあらすじでは、世界から忘れられてしまった主人公が、必死にそれをなんとかしようとする話というような書かれ方をしているが本質は別のところにあった。世界から忘れられてしまうその設定というのもなかなか手の込んだものだったが、バックマンがまったく理解していないように、読者も理解しなくてはいいのではないか、本質は何故タヴァナーが世界から忘れられてしまったのか、というところには無いのだ。意外にも本書は愛の物語であったし、さらに言えば相手に罪を着せるケースの、加害者側から見た話でもあった。ゴールデンスランバーなどでも語られる、権力によって罪を着せられた被害者側の話は多々あれど、加害者の視点も書かれる、というのはほかにはないのではないか。

内容はリアルである。一概に褒め言葉とも言えないのだがこの場合は褒め言葉である。愛というものを書いて、さらにその喪失を書いた場合リアルにせざるを得ない。解説でも書かれていたが、ヴォネガットと対比してみた場合、ヴォネガットの世界観は基本的に「そういうものだ」といってすべてをあるがままに受け入れていくしかない、という法則で支配されている。だが実際に身の回りに色々な事が起こってみると、「そういうものだ」なんていう達観した気ではなかなかいられないものだ、泣いてもどうしようもない時だって、泣かざるを得ない時だってある。無駄だと思ってもあがかなきゃいけないことだって、タヴァナーはあがき、バックマンは泣くことで受け入れようとしている。「そういうものだ」の裏には涙があるのだ。でもってルールから除外された存在であるアリスはあがくこともなきながら受け入れることもしないで、超然としている。

177〜188の、愛についてタヴァナーとルースが語り合う場面は、圧巻である。愛してもいつかは失ってしまうが、その悲しみを乗り越えてまた愛するのだ、と単純にしてしまえば色々な作品で語られ続けているようなことなのだが、問題はいかにして語るかである。語り方だけならばいくらでも幅が広げられる。

第三部の最後で、バックマンが出会った黒人とのやりとりも、やはり愛だろう。人は誰でも愛されたいと思っていて、そこに理由がつけられるのを嫌うのではないか。愛して、また愛されていた人間を失った人が必要としているのは誰かに愛されているという実感だろう。そしてその愛には理由があってはならない。見ず知らずの人間を抱きしめた黒人のように、無条件の愛が必要なのではないか。〜〜だから、という理由があったら、もしそれが無くなった時その人には何一つとして無くなってしまう。だからこそ宗教は必要なのかもしれない。