基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

こころ/夏目漱石

久しぶりに読み返した。基本的に再読というものをしないのだが、こころだけは教科書に載っていた時から何度も読んでいる。最後に読んだのはもうだいぶ前。今の方がよくわかったような気もするが、確証はない。昔読んだときも、わかった!とひらめきはしなかったものの、なんとなく感じていたようなことを今改めて読んだ事によって、浮き出してきたような感覚がするのである。解説に書かれていた夏目漱石の発言、心理を勉強している人はこの本を読め、というのはまさにといった感じで、これほど真に迫った書き方ができるのか、と驚くような心理描写である。さすがタイトルもこころ、なだけはある。読んでいて、先生が苦悩している場面はこちらも苦悩して、先生が愉快になったらこちらも愉快になってくるのである。

何故先生は「私」に自分の罪を告白して死のうと思ったのか。
恐らく死ぬためにはその行動が必要だったのだろう。自殺する人間のほとんどは現実に未練を抱えた人間で、自ら死ぬ時に、ほぼ確実にその未練を書いた遺書を残しておくという。公に遺書として残してしまうと奥さんに知られてしまうだろう。だからこうやって、「私」だけに手紙で伝えたんだろうと思う。そして、その長さの分だけ未練も大きかっただろう。問題はその未練が生きているうちには、絶対に解決できないたぐいのものだったことか。

まぁ偶然先生にそこまで接近してきたのが「私」だったからそうしただけで、いなかったらずっと生き続けていっただろうことを思えばどちらがよかったのかわからんが。それこそ乃木大将の、死のうと思い続けてきた35年間と、自殺した一瞬のどちらが痛いだろうという問いかけと同じようなものだ。ただ、「私」が先生に接近した理由が不明確すぎる。
先生は結局、妻に打ち明けられなかったが、先生肯定派か、否定派かで意見は大きく分かれるところだろう。あくまで先生は遺書に、妻の人生に影を落としたくなかった、というような意味を書いているが、それをあくまで先生のかっこつけと取るか、先生の弱さと取るかで話は全く変わってしまう。結局妻は自分のせいで先生が死んだんじゃないかと悩むのだから、むしろそっちの方がひどいともいえる。その辺は「私」がなんとかとりつくろったんじゃないかなーという未来も想像できるがあまりに不確定すぎる。一応、先生も妻には申し訳ないと謝っているが、申し訳ないで済むような問題ではない。先生肯定派と否定派で分けて話し合ったらなかなか面白いことになりそうである。

最初の方の展開は運命を感じさせる内容だが、正直意味がわからない。いきなり海で先生を見つけて、どこかで見たことがあるような気がするっていうだけでつきまとう。それだけならまだしも、家にまで押しかけていないとわかるや墓まで追いかける。最終的に、今にも死にそうな父親をほっぽりだして先生のところへ駆ける。恋か!? 恋なのかこれは!? それとも、不条理な事も起こる、それが人間の「こころ」だ、とでも言うつもりだろうか。考えてみるとよくわからない不思議な点はたくさんあるんだよなぁ。突然西枕で寝たと書かれていたが、なんという説明もない。

先生は人を信じることができないせいでKが死んでしまったのに、それでも人を信じることができない自分が苦しかったのではないか。そもそも、Kの自殺は結果的に、呪いを先生にかけたに等しいのだが、意図してやったものかどうかという疑問が持ち上がる。自分にはわざとそうやって死んだとは思えないのだが。自分の中で変えることのできないものが相反することによって、どうすることもできなくなり死んでしまったのだ、とそう考えた方がよほど自然である。わざわざ自分の部屋で死んだのは、どうしたものか。この時代、死ぬなら畳の上という考え方が根付いていたと思うので、別に部屋で死ぬ事はなんら問題ないような気がするが・・。こんな一直線な人間がよく大学生になるまで生きてこられたな、と不思議ではある。「私」と先生の会話の中で、先生が陰陽思想のようなものを語っていたことがあった気がするが(あやふやすぎる)世の中相反するものばかりで、どうにかこうにかおり合いをつけていかなくちゃいけないのだ。いい事も悪い事もいっしょくたにして一つなのである、という。結局Kも先生も自殺してしまったのだからしょーもない話である。報われないねぇ

先生の行動を逐一見直してみると、先生唯一の欠点は勇気が不足している点であるような気がする。幸せな生活というものを自分で得るためには、どこかで勇気を振り絞らなければならなかったのではないか。妻に打ち明けることもそうだし、Kに打ち明けることもそうだし、結局なんだかんだと自分に都合のいいように言い訳をしてその場しのぎをし続けてきた結果がこれだよ! 屍だよ! どうどうめぐりをする人間の思考回路が非常によくわかったぜ、へっ。 どこかで一点集中突破しなきゃいけねーんじゃねーのか。先生の行動のもどかしさを見ていてこちらももどかしい気分になるのは、あーもーなにやってんだよ! ちゃんとしろよなさけねーな! という批判的な心理状態から来ているのじゃないだろうか。

何故友人の名前が「K」なのかという問いに対して、Amazonの感想に自殺した時に使用したKnife、そのK発音されない、つまり言葉にすることができない気持ちをこめたのではないかという答えがあったが、凄いなぁ。真偽はともかくとしてもうそれでいいよ、といいたくなるような答えである。もしくはこころをアルファベット並びにして、kokoro。ここから何か暗号めいた解読が行われるのじゃないかと内心疑っているのだが・・・。カフカのzamzaとkafkaのように何かあるに違いないと思ったり思わなかったり。なかなか面白い謎解きである。

最後に一番好きな場面でも。
Kが先生に対して助言を求めてきた時に、故意に自分の都合のいいセリフを言ってしまう場面である。精神的に向上心のないものは馬鹿だ、と言ってのける時の心情表現がただひたすら圧巻。そしてこのときの表情が、デスノートのライトが、計算通り、とニヤッとする場面が思い浮かび非常に満足である。実際には無論そんな表情を浮かべていなかっただろうが。このエゴイズム丸出しのところがやっぱり漱石の本領発揮というところなのだろうか。