基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

θは遊んでくれたよ/森博嗣

Θ(シータ)は遊んでくれたよ (講談社ノベルス)

Θ(シータ)は遊んでくれたよ (講談社ノベルス)

 その実例とは、すなわち千八百余年前カルヴァリ丘上に起こった事件である。その生涯と談話とを目撃した人々の記憶に、非常な道徳的偉大さを深く印象して、その後の十八世紀の間全能者の権化として崇められて来たほどの人物が恥ずべき死を与えられたのであるが、それはいかなる在任としてであったろうか? それは、瀆神者としてであった。人々は、彼らの恩人を、単に誤解したというだけに止まらなかった。事実上の彼がそうであったとは正反対のものと誤解し、最大の不敬漢として取り扱った。

今回の引用は『自由論』J.S.ミル。
引用文だけでは自由論がどういう本なのかはよくわからない。読む優先度は低いが、もう何年も前から読みたいと思ってきた本ではある。いつか読もう。今回の出来事を事件から追って行くと、どんどん人間が飛び降り自殺していく。飛び降りた人間は誰もかれも、体の一部にθの文字が刻まれていた。

うーむ。推理してみたがやっぱりわからん。可能性のある事柄が多すぎて、たくさん思いつきはする。その思いつきは確かにあたっているのだが、これだ! と確信をもってあてることができない。もっと真剣に読めば違うのかもしれないが、これぐらいが限界である。これぐらいというのはつまり、特に特別なことはせず、だがしかしミステリ以外より注意深く読む程度である。これ以上の真剣味を要求されると、楽しめるかどうか怪しい。どんなに頭の回転が遅くても、時間さえかければ解けるだろう。問題はその時間がかけられるかどうかだ。時間対効果とでもいうのだろうか、こういうことを。アホなことを書いたが要するに何が言いたいのかというと、バカすぎて問題がとけねぇバカ野郎!である。くやしいなあ。わからない原因なんていくらでも思いつく。次はもうちょっと頑張ってみるか。

キャラクタの話に移ろう。どうやら萌絵は完全に、海月たちに情報をうまいこと提供するパイプ役として確立しているらしい。しかしそれにしては登場回数が多すぎる。半分ぐらい出しゃばっていたような。これからも半々で進んでいくのならばなんら違和感はないのだが、これから先どうなるかわからないので杞憂である。探偵役の海月君(なぜか君をつけたい気分になる)は見事事件を解決したが、犀川先生はそれよりもっと少ないヒントで解いた、とフォローが。反町愛が出てくるが、あまりにも久しぶりすぎて思い出せない。そういえばこんな奴もいたような気がするレベル。西尾維新戯言シリーズに出てきた看護婦とキャラがかぶっているような気がしなくもない。真賀田四季やら、保呂草やら、おっ久しぶりじゃーん、元気ぃー? という感じの名前が出現する。やはり事件を裏で操っているのは真賀田四季であるのかどうか。MNIという組織も出てきて、二巻にして全体の流れが定まりつつある。

 世人は、天才によって人物が人を感動させる詩を書き、また絵画を描くことができるという場合、天才をよいものと考える。しかし、天才の真の意味、すなわち思想と行動とにおける独創性という意味においては、ほとんどすべての人々が──天才など何も感嘆すべきものではないとは誰も言わないにせよ──心の底では、自分たちは天才がなくても充分やってゆけると考えているのである。遺憾ながら、これは当然至極であって怪しむには足りない。独創性こそ、独創的でない人々には正にその効用を感知することのできない一事なのである。

よく西尾維新森博嗣の批判として、天才が書けていないという評価を聞くがどうなのだろうそれは。天才が書けているとは何なのだろうか。テーマが弱い、テーマが書けていない、などの根も葉もない批判とどこが違うのかわからない。独創性は誰にも感知することできないのならば、もし仮に天才が書けたとしても、誰も理解できないではないか。

どうでもいいけど気まぐれで商品をやってみた。これ、一体何の意味があるんだろう。たまに表紙をネタにする時があるから、そういうときだけこれやってみるか。