基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

εに誓って/森博嗣

εに誓って (講談社ノベルス)

εに誓って (講談社ノベルス)

 ゴーウィンダよ、世界は不完全ではない。完全さへのゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ。あらゆる罪はすでに慈悲をその中に持っている。あらゆる幼な子はすでに老人をみずからの中に持っている。あらゆる乳のみ子は死をみずからの中に持っている。死のうとするものはみな永遠の生をみずからの中に持っている。

今回はトリックというよりも、自殺、他殺についての考えの方が興味深いものとなった。特にこの『シッダールタ』ヘルマン・ヘッセからの引用は興味深い。初めて読んだ事のある作品から引用がきた。死のうとするものはみな永遠の生をみずからの中に持っている、か。Gシリーズ一作目である、φは壊れたねで引用されていた『論理哲学論考』でも同じ事を言っている。一貫したテーマ、なんてものがあるのだろうか。

さてさて、内容はバスジャック事件である。バスジャックといえばすぐに、バスが一台に見せかける叙述トリックが思い浮かぶ。次に乗客全員が犯人の一味だったりする展開も多い。多い、とか書いちゃったけど多いような気がする、で。今回もやけに、ぼかそうとする意図が随所に見られて叙述トリックだというのは、すぐにわかる。特にこの視点がめまぐるしく変わるのはそして二人だけになったで経験済みなので余計にわかりやすかったのかもしれない。トリックがわかったからというわけではないのだが、事件そのものは特筆すべきところもなく、淡々と進んでいく。特に何が起こるわけでもなく、視点が次々と移動し自殺や死についての考えが述べられていく。この作品を読んでいると死ぬのも悪くないか、とでもいうような気分になってくるから困る。いや、このεに誓って、のみならず森作品全体で言えることなのだけれども。

海月と赤柳による犯罪の動機について語り合う場面はなかなか面白い。何故犯罪が起こった時に、犯人に動機を尋ねるのか?→レッテルを貼ろうとしているだけである。本来犯人に犯罪の動機を尋ねるべきではないのだろうか。今回のGシリーズ、記憶している限りでは犯人の動機が語られたことは一度もない。探偵役である海月からして、考え方を縛られることを何よりも嫌う人間である。動機なんていうのは、あくまで主観的なものであって何もかもから縛られずに、思考という海の中で自由でありつづける為には排除しなければならないものである。そういった点ではGシリーズ、一貫している。ただこの極端なまでに動機を排除した書き方が、Gシリーズ特有のものなのかがわからない。一応SMシリーズもVシリーズも全部読んだのだが、何一つとして覚えていないこの体たらく。常識からの脱却、を常に求められている感覚がある。引用文からもそれが見て取れる。主体は世界に属さない、それは世界の限界である。

自殺を禁じている宗教が多いのは何故か、という話が出てきた。単純に自殺を禁じていない、推奨する宗教があったとしても長続きしないからではないかと考える。なにしろ自殺をすすめるぐらいならば、信者は自殺をするだろうし、そうすると増えるどころかどんどん減っていくだろう。最終的に自殺を強く禁じている宗教が残った、ってことだと思う。
確かに禁欲主義者達は、死ねば天国にいけるのだから何で早く死なないのだろうと思う事があるなぁ。

 死のうと考えることは、きっと自由なのだ。
 それを考えられることは、人間の尊厳の一部。
 考えても良い。
 考えるべきなのだ。
 そして、考えても死なないことに、価値があるのではないか。
 結果として、死ななかったことに、価値があるのではないか。

一応のまとめがこの部分である。特に何か書く事もないが、本書を長々と説明するよりもこれを書いておけば全体を要約したようなものである。多数の自殺者志願者のうちから、幾人かはこうやって、葛藤しながらも死なないですむ道を探し出せた人間がいた。というただそれだけの話である。