基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

玩具修理者/小林泰三

 表題作であり日本ホラー小説大賞短編賞を受賞した玩具修理者と、中編である酔歩する男の二編を収録している。玩具修理者は読み終わって考え直してみれば至極まっとうなホラーの王道にのっとっている。とはいってもホラーの王道を知っているといえるほどホラーを読んでいるわけではないのだけれども、怪談話とかでありそうな話だよね、ぐらいの感覚で書いている。最後のネタバラシを臨場感たっぷりにニャー! とでもいいながら叫んだらかなりびっくりさせられそうである。すべては後になってホラーだなぁと思い返しただけで、読んでいる最中は完全に引き込まれていて素直にラストで恐怖を感じた。

 玩具修理者では生物とは何か、生命とは何か、生物と無生物の違いは? などなど刺激的な問いが出てくる。生物と無生物といえば、まさにジャストなタイトル、「生物と無生物のあいだ」という新書が真っ先に思い浮かぶが、この本の中では答えは得ることができない。こんなタイトルにしておいてそりゃねえよと思ったものだが答えがでないという答えもまた答えの一つとして受け入れなければならない。しかし生命の定義は割と色々なところに書かれている。たとえば「時間はどこで生まれるのか」では生命をこう定義している。

 生命とは秩序であり、かつ、その秩序を持続させる「意思」をもった存在である。

 割と分かりやすい答えであるといえる。玩具修理者の中では、機械をどんどん精密に複雑にしていけばやがては生物に行きつくと言っているがあまり納得のいく答えではない。機械がアイ・ロボットか何かのように自意識を持ち、崩壊を食い止めようと活動をしはじめたらそれはもはや生物ではあるのだろう。しかし自分が壊れそうになった時に自動修復機能を持った機械は生命ではない。何故ならそれは意思ではないからだ。というのが時間はどこで生まれるのかで言いたい事だろう。だが小林泰三のひどいところは、その意思ってのはなんなんだ? という問いに巻き込んでしまうところであってそれでは返答のしようがない。今回に限って言えば修理されて機械と混ざり合ったといっても秩序を持続させる「意思」を持った存在という定義から外れてはいない。よって生命と定義できるだろう。考えてみれば最初からこんな短編ばかり書いていたのだなぁと愕然とする思いだ。神林長平も一番最初の短編から後の作品と勝るとも劣らない素晴らしい短編を書いていたが、小林泰三だってちっとも負けていない。小林泰三が作品の中で幾度となくあんたがいる世界は本当に確かなものか? と揺さぶりをかけてくることによって恐怖を湧き起こさせる。このおかげで完全なハードSFである酔歩する男も、ホラーとしての要素を備えている。

 そういえば玩具修理者でググったら玩具修理者 ピトーが 検索項目の中に含まれていてなんだろうなーと思ったら、ピトーの能力名が玩具修理者だった。そうだったのか・・・。富樫先生も小林泰三のファンだったのか・・・。納得できるような気がする。話が脇にそれたついでに玩具修理者といえばΑΩに出てきた「ガ」の名前が玩具修理者であると判明するが、接点はあるのかどうか。たんに名前を拝借しただけ、とかだったら悲しいのう。

  • 酔歩する男

 ハードSFというと宇宙がーとか科学がーとかが代表にあげられがちだが、この酔歩する男も科学だとかなんだとかは出てこないものの立派なハードSFである。時間とは何かという問いから始まり、時間がマイナスに向かって行っても何の問題もないじゃないかと論理的な段階を踏みつつ話を展開していく。実際時間がマイナスに向かうということはエントロピーが減少することであって、そんなことはあり得ないと時間はどこで生まれるのか で否定されてしまっているがまあいいだろう。

 どんな話か簡単に書いておくと、結局この世は自分たちで勝手に作り出した妄想にすぎないよね、という話である。しかしそうした因果を超えたところにある存在が手児奈だと。最後に君は誰だろう? の問いに答えたから、ひょっとして妻が手児奈なのだろうか? と考えていたが拡散してどこにでもいる存在が手児奈だとしたら最後は単純にどこにでもいる手児奈が答えてくれたにすぎない。結局のところ現実がただの妄想なのかもしれないと気が付き、何もかも不確定なものとしてしか認識できなくなったと。何だかこういう精神病あったよなぁと思いながら最後まで読んでいた。結局のところ純粋に第三者的観点から見れば気が狂ったやつの話を聞いていたら狂気が伝染して話を聞いていた方も狂ったというただそれだけの話である。

 最高に盛り上がったと個人的に思っているのは、丈夫がタイムトラベルをしていたら両親が生きているところへ戻ってしまう場面である。そこで丈夫は死がいかに呆気なく覆るものなのかを知る。しかも何故だか知らないがそれを論理の礎にしてきたという。そりゃ礎にしてきてそれが覆されたのならショックだろうが、何で死なんてものを論理の礎にしてきたのかさっぱりわからん。普通死についてそんなに考えるような人間はいないだろう。死者が目の前で動いているのを見て強烈なショックを受けているが、この本を読む前に平然と死者がよみがえってきて、迎える方も平然と死者を迎え入れる小説「黄泉がえり」を読んでいたので違和感を覚えるのかもしれない。おい、そんなにショックを受けるようなことかよ? と思ってしまう。だがベストな場面である。緊張感とか動揺とか常識が覆されたショックとかが直に伝わってくる。

 まあこんなところか。総括としてはどちらも小林泰三の核を体現したかのような作品で非常によかった。それは根元的な問いでもある。時間とは何か、とか生命とは何か、意識とは何か、問いとしては単純で、今だに議論が絶えないこうした素朴な問いを小林泰三テイストで盛り上げていくのだろう。どの作品にも共通してこの素朴な問いは紛れ込んでくる。一作品でも気に入ればほとんどの作品を楽しめるのが小林泰三の強みだ。神林長平とも似ている。字も林という字が共通してるし(関係ない)