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道徳の系譜/ニーチェ 第二論文「負い目」・「良心の疚しさ」・その他

道徳の系譜 (岩波文庫)

道徳の系譜 (岩波文庫)

 さてさて、書くかどうかは五分五分だったがやはり書き始めることにする。暇じゃなかったら書かなかっただろうが暇だから。それに本書を簡単に説明すると第一論文が一番難しくて、第二論文がいちばん簡単で、第三論文が一番面白いのだ。ってことで第二論文をまとめるのはそれ程難しくないんじゃないかなと楽観している。まだ書いていないからこんなことが書けるわけだがそれがどうなるかは後半に行くにつれて明らかになるであろう。それではスタート。

 第二論文での主な問いかけは以下の通りである。
 1.約束をなしうる人間を育て上げるのが人間の本来の問題ではないか。また人間にはいかにして記憶が刻みつけられるか。
 2.良心の疚しさの起源はどこにあるのか。また負い目の起源は。
 3.刑罰の起源、目的について。
 4.正義とは何か。
 5.神についてのちょっとしたあれこれ

 本書に書かれている順番とは違うが、大別するとこんなところだろうか。最後では神と負い目などの関係性について語られているが、ここをまとめるのは非常に苦労しそうなので投げ出してしまった。まあいいだろう。こんなものを読む人間がいるとは思えない。あくまで自己満足である。そいじゃあ適当にまずは1から順当に行きますか。

1.約束をなしうる人間を育て上げるのが人間の本来の問題ではないか。また人間にはいかにして記憶が刻みつけられるか。

 約束をなしうる動物を育て上げる──これこそは自然が人間に関して自らに課したあの逆説的な課題そのものではないか。人間に関する本来の問題ではないか・・・・・。

 いきなりこの一文で第二論文は始まる。つまりこの問いがこの論文の核となる問題であるとしていいだろう。約束をするということはすなわち忘れないということであって、このあとしばらく健忘の効果が語られていくことになる。健忘する、出来るということは健康であることを示しているが、しかし人間は反対の能力、つまり忘れないことを習得したのだ。またここでは、約束をする現象を能動的な意欲であり本来の意志の記憶であるといっている。つまるところ前向きな意志とでもいおうか。

 一個の約束者として未来としての自己を保証しうるようになるためには、人間は自らまずもって、自己自身の観念に対してもまた算定し得べき、規則的な必然的なものになることをいかに必要としたことか!

 そしてこれこそが責任の系譜の長い歴史であるという。ちょっとわかりづらいのだがこれはつまり習慣を持つことへの推奨だろうか? と思ったがちょっと違う。習慣を持つ事は人類への推奨ではなく、ただ単に約束ができる人間を生み出すための下地にすぎない。成熟した習慣化された社会になった時に独裁的個体、ここではつまり約束をなしうる人間が生まれるのだとしている。約束をなしうるやつらつまり独裁的人間はみんな自分の意志の中に価値尺度をもっていて、すばらしいやつにはそれなりの対応をするが愚図なゴミのような虫ケラのようなやつらには虫ケラに対するのと同じ態度しかとらないといっている。そしてそれを

 疑いもなく、この独裁的人間はそれを彼の良心と呼ぶのだ・・・・

 おおう・・・。虫ケラの立場からしてみればひどい話である。

さて、二つ目の問い。いかにして人間には記憶が刻みつけられるかである。ここではまず歴史を振り返ってみている。過去を見るに、自己に記憶をさせる必要があると感じた時、苦痛とセットで済まなかったためしはないという。過去に行われたあらゆるひどい刑法は、どんなに頑張って健忘に打ち勝とうとしてきたのかの一つの尺度である。数々のひどい刑罰(四つ裂き、皮剥ぎ、石刑などなど文字だけで痛い)によって人々はついに理性にたどり着いたのだ! としている。確かに昔の刑罰を見ると残忍なものが非常に多い。これはそうでもしないと人々を抑制することができなかったのだろう。今の日本でも犯罪が多くなると、刑を重くするような社会の流れになっていくという。仮に死刑を残酷なものだとするのならば、これから先日本が豊かになっていけば死刑を自然と必要としなくなるのではないか。

2.良心の疚しさの起源はどこにあるのか。また負い目の起源は。

 約束の話も割と重要だけれども、良心の疚しさの方がこの論文にあっては重要だ。
 良心の疚しさの発明者は<<反感>>を持った人間だ! とか「負債」から来たのだ! とかの論が展開されている。最終的な第二論文での良心の疚しさの捉え方は、ひとつの病気である。人間は誰しも破壊的な本能を持っているわけであって、常に法律、刑罰によって本能を抑え込まれている状態にある。抑え込まれてしまった本能が行き場をなくして自分の内側へと本能が流れ込んでくる。この現象を「良心の疚しさ」の起源であるというわけだ。国家によって本能が潜伏させられなければ良心の疚しさは成長することはなかったであろう。

 負い目の起源は、そもそも「負債」という物質的な概念から由来してきている。話は少し刑罰の起源に移り変わる。今のように犯罪者が罪を計量し、細かく法律が定められて刑罰が決められるようになったのは後天的に、いわゆる理性によってたどりついたものである。昔行われた刑罰は悪事を働いた責任者に対する刑罰ではなく、加害者に対して発せられる被害についての怒りからして刑罰は行われたのだ。そしてこれが、損害に対して苦痛でもって答える思想である。損害=苦痛であり、その起源が債権者と債務者の関係であるというわけだ。

3.刑罰の起源、目的について。

従来の道徳系譜論者たちは復讐や威嚇を目的に据えて、刑罰の起生因であるとしているがそれは全然違うよねっていう話である。それがすべてであると言っていい。何しろことあるごとに道徳系譜論者を引き合いに出してこいつらはこういっているけど、実は違うんだよねというところから全ての話が始まるのだ。または無知な人々を引き合いにだしてこいつらはこんな馬鹿なことをいっているが全部勘違いだ勘違いだと言っているだけで結局のところ起源が何なのかというとあやふやになってしまう。書かれているのだろうとは思うのだが、膨大な文字の山の中にうもれてどこにかいてあるのかわからなくなってしまった。もしくは書かれていても難しくてよくわからなかった・・・。というか今では何で刑罰が行われるかを明確に述べることは不可能であると言い切っている。また刑罰の意味がいかに不安定かということについてもかなり語っている。

 当然人々は刑罰は有罪者に負い目、良心の疚しさ、良心の呵責、つまりはあー俺犯罪おかしちゃったよ・・・もう損害を与えてしまった人たちに悪いからやらないようにしよう・・・的な感情を起こさせる価値を持っていると思っている。しかしニーチェはそれは間違いだと断言する。その間違った認識のせいで現実をつかみそこねるのだと。大体の犯罪者は良心の呵責など感じない、監獄では良心は育たないという。

 そもそもからして、長いこと裁判者には「有罪者」を扱っているという意識がまったく念頭にのぼらなかった。運命的なものとして扱っており犯罪者の側も、捕まった時に思う事はなんでこんなことになっちまったんだろう・・・運が悪かったな・・・という感じであって、あぁ・・・あんなことするんじゃなかったなぁ・・・という感じではなかった。これの説明付はたんに長い期間を通して人々が宿命論を信じていたというだけでいいのだろうか?

4.正義とは何か。

 「事物はそれぞれの価値を有する、一切はその代価を支払われうる」中略
 ──これが正義の最も古くかつ最も素朴な道徳的規準であり、地上におけるあらゆる「好意」、あらゆる「公正」、あらゆる「善意」、あらゆる「客観性」の発端である。

 正義の起源を<<反感>>の上に求めようとするのに対して反論をおこなっている。正義を被害を受けた側からの復讐の意味合いから生じさせるのは、間違いであって、正義の精神によって反動感情、復讐がうめられるのは最後である! といっている。

 正義が維持されているところではどこでも強い力は弱い力に対して<<反感>>感情をおさえるような手段を講じる。手段として最も使われてきたのが法律の制定である。法を制定するから初めて不法が生まれるのであって、法さえなければ侵害も圧制も搾取も不法行為ではない、生は本質的には破壊的、侵害的なのである。本能を抑え込むような法律の制定は生を敵視する一原理であるとしている。

5.神についてのちょっとしたあれこれ

 苦しみに対して人を憤激させるのは実は苦しみそのものではなく、むしろ苦しみの無意味さである。

 苦しみの無意味さから逃れるために人々は神を作り出さなければならなかったのだろう。
神によって苦しみに意味が与えられる。このあとは世界の神々についての話がすすめられるがちょっと割愛。そして自由意思の話である。

 善悪における自由意思の発明は、人間に対する、人間の徳行に対する神々の興味が尽きることは決してありえないという思想を理由づけるために、特に工夫されたのではなかろうか。

 なるほど、自由意思がなければ世界は決まりきったものになってしまい、神にとっては先の見え透いてつまらないものになってしまう。だからこそ自由意思が発明されたのだ。アインシュタインも、ヘンリー・フォードも、ソクラテスも自由意思なんてものはまやかしだと断言している。ニーチェはこの件についてはいったいどういう立場をとっているのだろうか。多少気になるところである。

おわりに

 さてさて最終的に書き終わってみれば第一論文より簡単なんて口が裂けてもいえないことが理解できた。負い目良心の疚しさ・その他などとくくられているところに注目するべきだったのだ。その他ってなんだよ、その他って。論文なんだからもうちょっと詳しく書いてもらいたいものだ。結局その他に相当する場所が、しっちゃかめっちゃかに詰め込まれすぎていて何がどうつながっているのかさっぱり理解できずに、というかまとめることが非常に困難で第一論文よりかなり大変だった。特に同じことを何ページかにまたいで繰り返し述べていて、流し読みする時は確かに復習のように読めて理解度があがるのは間違いがないのだが、こうしてまとめようとするとまた前のところに戻って参照しなければいけなかったりと大変である。まあ何はともあれこれにて第二論文終了。何分こんな哲学書なんてほとんど読まないズブの素人が無謀にもまとめに挑戦しているわけであって、間違いの方が多いと思われるが簡便願いたい。次は第三論文だ。ここまできたのだからもうひと踏ん張りしよう。