基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

Wドライヴ院/清涼院流水

Wドライヴ院 (講談社文庫)

Wドライヴ院 (講談社文庫)

 驚いた。物語の結末にも度肝を抜かされたし、流水先生がこんな作品もかけるのか! という意味でも驚いた。今回も特別な読み方が示されていて、二つの物語を順序を逆にして読む読み方だ。本は前から読む物であるという固定観念に凝り固まっていた自分は普通に1ページ目から読みはじめてしまったが、逆の読み方でもよかったかもしれない。しかしそうすると最後の驚きが無くなってしまって、とても損のような気がするんだよなあ。

 また特に意味はなかったけれども、文字の並びが特に意識されていて何行も同じ場所で区切られていたり、一文字ずつ行が進むたびに少なくなっていったりと見た目的にも面白いものとなっている。徹底的に言葉で遊びまくる趣向も満載で、いらいらするぐらいである(褒め言葉)特にデリバリー・ヘル(出張地獄)を略してデリヘルの遠藤などとの通り名が出てきた時は爆笑を通り越して尊敬した。そんなアホなことを考えられるのはなんてすばらしいことなのだろうかと。作家というのは普通の人が気がつかない点に着目して、それを文章にしなければならない。誰も気が付いていないからこそ、そこには価値が生まれる。そういった意味では誰も気が付いていない文字の世界を表現し続けている流水先生はこの分野の第一人者でありSFジャンルの第一人者であるH.G.ウェルズなどと肩を並べる存在なのではないいだろうか。世の中にはさらに発展した系統の、SFミステリィの第一人者といえばアシモフといったように細かく系統がわかれていく傾向があるけれども、流水先生のこの大説は唯一無二のものであって他の追随を許さない。

 驚いたのが、この結末にはそれほどアホなという気持ちがわき上がってこなかった点である。それどころか普通の良質な作品を読み終えた時に感じるような、うぬぬこやつやってくれるわという感想だった。意味不明な仕掛け(最大の仕掛けは物語の外にあるというやつ)はやっぱり健在だったけれども、特殊な読み方もやっぱり健在だったけれども、それさえ無視すれば清涼院流水をまったく知らない人間にも勧められそうな程ケレン味の少ない素晴らしい作品だった。特にそう思ったのは、木村さん殺人実験Wを読んだときである。この中で、倍々ゲーム的に分裂していく木村彰一が俺たちこのまま増えていったら一か月で地球の人口を越して、ひょっとしたら殺されたりするんじゃないかという空想をする場面がある。途中まで空想なのか現実なのかわからなくて、本当に分裂して何十億人になってしまったのではないかと心配になったのだが最終的にはやはり空想だった。そう、ここが問題なのだ。いつもならやる。実際に倍々させて地球人口をはるかにオーバーさせた木村彰一を出現させる。コズミックやジョーカーやカーニバルでもやってみせたように、誰もが一度は考えるアホな妄想を実際に書いてしまうアホさが御大にはある。だからやると思ったのだが、そこはあえておさえてくれたらしい。空想という枠の中にとどまってくれた。

 ちなみに最後に提示された物語の外にある大じかけ、「ナントカ院」とは清涼院のことでいいのだろうか。地図を見たけどよくわからない・・・。