- 作者: 清涼院流水
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1999/09
- メディア: 新書
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このメロディは──まんが日本昔ばなし。
九十九さんの携帯電話が鳴っている!
・・・・・・・!?!?!? この場面を読んだ人で吹き出さなかった人がいるだろうか、いやいないだろう。それ程のインパクトがこの場面にはあるはず。喋っているだけで笑える十九の携帯の着信音はなんとまんが日本昔ばなし!!! このとてつもなく微妙なチョイスはなんだ!? ここで昔の演歌とかをチョイスされたんだったら苦笑いですむだろう。現にキャラクターの印象とはまるで違う着信音のギャップで笑わせるというネタは一時期結構はやっていたではないか。それはギャップを意識しすぎていて、大きなギャップを作ろうとし過ぎていたのではないか。見よこのまんが日本昔ばなしという絶妙に微妙なチョイスを。これこそが清涼院流水の真髄である。
さらにいうならば、他の流水作品をそれなりに読んできてパターンがあることがすぐにわかる。その全てがカーニバルにはつぎ込まれていて、その全てがいい方向に作用しているとしか思えない。たとえば執拗なまでに繰り返し一つ一つの事象を書いていくその手法。たとえばカーニバルだったら、色々な世界の名所で事件が起こるけれども、その都度名所の歴史的立ち位置とか、とりあえず名所の説明から入ってから爆破してみせる。コズミックでも十九人一人一人生い立ちやら友達やら人生を書いてから殺して見せる。他の作品でもこの傾向は多々みられる。普通は面白くねえーとか、読む意味がねえーとかいって読み飛ばされそうなものだがカーニバルの場合、仮に読み飛ばしたとしてもそのインパクトは衝撃的である。毎回毎回出てくる単語は自由の女神とかベルリンの壁とか、ビッグネームすぎて無視しようにも完全に無視することができない。それからこの病的なまでの分厚さ。こんだけ分厚くて重いと本を壁に向かって投げるのも一苦労である。そして一番最初に書いたように、圧倒的キャラクター性から生まれる絶妙なギャグ時空とその動作。御大のJDCシリーズ以外の作品を読んでいていつも何か足りないと思っていたのはこの強烈なキャラクター性だったのだ。これだけはちょっとわからない。何でこんなたくさんの理解不能なキャラクターをJDCシリーズで大量に動かしているのに、他の作品では真面目な、悪く言えば個性のないキャラクターばかりになってしまうのだろうか。もちろん他の作品が面白くないわけではないし、個性のあるキャラクターもいるけれどJDCのような阿鼻叫喚図とはいいがたい。考えてみると人は謎を解くために生まれてきたというのは鴉城の座右の銘として書かれているが、大説で共通しているテーマの一つでもある。当然他の作品でも大なり小なり謎が提示されて、それを解く探偵役が出てくる。だがこのカーニバルによって人類は危機に陥ってしまい、身の危険を感じた人類はついに人類総探偵として覚醒したのだ。となればこの人類を標的にした謎が頻発するJDCシリーズが個性的なキャラクターの阿鼻叫喚図となるのは至極当然のことで、他の作品でもこれをやろうと思えばカーニバルのパクリになってしまうに違いない。そもそもJDCという設定を考えついた時点で恐ろしいのであるがまあそれも置いておこう。そもそも人類総探偵というのは考えてみれば現在のミステリィ業界と非常に酷似しているといえなくもない。昔は金田一とか、ごく限られた有名探偵しか推理小説界にはいなかったけれども今の推理小説界を見るに探偵が溢れかえっている。それもいったん出てきたら消えることはないから増える事はあっても減る事はない。
作品内で、デビットカッパーフィールドのセリフを引用しているが、それがどう考えてもこの作品のことを指していて重要な場面となってもいる。実際にこのセリフをカッパーフィールドが言ったかどうかは定かではない。
奇を衒った意外なことさえしていれば、誰もが満足してくれるわけではない。薄っぺらい驚きは、直ぐに慣れ、飽きて、忘れられ、揚げ句の果てには、マンネリ化を軽蔑されたりする。奇怪な「芸」はたしかにエンターテイメントではあっても、テーマの深い芸術には至らない。エンターテイメントとしての使い捨てマジックなら、テーマは要らない。その場限りのエンターテイン(御奉仕)で、小さな喜びを観客に与えるのも、本人が納得しているならそれでいいかもしれない。だが、より高次の崇高な目的を揚げるなら──人々の心の底まで揺さぶり、生涯忘れられない感動を味わって欲しいなら、芯に一本筋の通ったテーマが不可欠となる。
明らかにこのカーニバルを指しているような言葉だ。そしてこの作品を流水先生が読者に対して心を揺さぶる作品を提供したいと思っている事は確かなことである。いつでも先生は全力だぜ! さて、当然そうなるとこの作品にも一本筋の通ったテーマがあることになる。これはもちろん自明のことで、この作品に限らず大説にはすべて一本筋の通ったテーマが存在している。それは固定観念に縛られないこと、その一点につきる。それは全作品を通してのテーマだけれども、JDCシリーズに限って言えばまだ他にもある。メタ的な視点である。常に自分は物語という世界を生きているという事実、自分を読んでいる誰か、または自分の人生を常に見ている自分という存在。それを作中の登場人物に幾度となく意識させることによって、自分たちの現実を揺さぶってくる。まあこれも固定観念の喪失という枠でひとくくりにできる。それから人は謎を解く生き物であるというテーマ。この話の重要なところはテーマが重要だよ、というよりもテーマさえしっかりとしていればどんなことをしてもいいという精神ではないだろうか。大森望が清涼院流水に、こんなにパワーインフレを起こしてこのあとどうするつもりなんですか? と聞いた時に限界まで突っ走れば更なる限界が僕を待ち受けているというようなことを言ったらしいが、どこまでも限界を超えてその場その場で超インフレを起こしながら作品を作っていってもテーマという芯がある限り作品は大丈夫なのだという主張かもしれない。
物語のちょうど半分ほどで大津波に日本が襲われる場面がある。襲われる直前に、物語についての言及がみられる。いわくリアリズムにこだわりすぎるのはよくないとか、ページ数の残りからこの大津波も実はたいしたことが無いものだとバレてしまうとか。そういうことを突然書きだすので、ひょっとしたら日本は本当にこの大津波でダメになってしまうんじゃないだろうか・・・?とかつてない不安に陥れられた。もっとも、津波が襲ってきたにもかかわらず無事でした! とニュースキャスターが報告するのをすぐに読むことになる。だが凄く驚いたのが、この津波によって日本人口が半減しているという事実である。アナウンサーは私達は助かりました! と叫んでいたが日本人は五千万人も死んでいるのだからおよそ助かったとはいいがたい。戦争だったら半分の戦闘員が死んだらそれはもはや全滅といってもいいぐらいだ。まあ、この津波によって十億人も死んだし危うく日本沈没どころじゃなく日本全滅になるところだったのだからやっぱり助かったという表現であっているかもしれない。しかし半減したというのは考えてみると恐ろしい出来事である。そもそもカーニバルの何が凄いって、本当に殺して見せるところだよなあ。普通だったら、インディペンデンス・デイだってなんだって地球が滅亡するかもしれないがそれをなんとかして防いだ! かもしくは日本沈没やら復活の地みたいにいったん全壊させてからさあそこからどうしようかという話になる。なのに現在進行形で侵略が開始されていて、しかも大津波が日本を襲ってきて止めようとするだけで一大長編小説になることは請け合いなのに、平然と日本人を半減させてみせるこの圧倒的リアリズムの崩壊。それがただ単に誰も予想していないことをやらかしてびっくりさせるためだけのギミックだったら無理やり色々な要素を詰め込んでみた映画のハムナプトラ3みたいに寒いことになるんだが、これがそうじゃない。なぜなら今までの下地があるから。ジョーカー、コズミック、カーニバルとどんどんトンデモレベルがあがっていって、奇をてらったとかじゃなくてまあそりゃここまできたらそれぐらい起こるよな、という諦観? 十の驚きを体験した後では一の驚きではびっくりすることはない。いまさらこのJDCシリーズで、普通の足跡トリックなどを使ったミステリィなんて起こったって誰も見向きもしない。そこで簡単に十五の、二十の驚きをもってこれる清涼院流水の恐ろしさが本書を読むことによって体験することができる。
名場面は多々あれど一番興奮したのはUNO推理の使い手、鵜の丸が洗脳から解き放たれる場面だろう。こればっかりは読んでもらわないと興奮が伝わらない。洗脳されていた仲間が仲間の激励によって復活するというのは王道展開だし、だからこそ面白いものだ。まあでも普通は主人公の絶対的ピンチに〜とかいう危機的状況からの逆転劇に使われる事が多いが、この場合は危機的状況でもなんでもなくUNOをやっている最中に覚醒する。UNOを愛する拙者の心が意識を覚まさせてくれたのだとかなんとかいっていて、普通に読んだら爆笑してしかるべきところだがあくまで大真面目にかっこよかったし、燃えた。
終盤さらに驚くべき事実が明かされる。この執拗なまでの入れ替わりのマジックで読者がもうどうでもいいやという状況に陥ることまですべて清涼院流水の思惑通りだった・・・! もちろんここでは書かれてはいないが、一回読者が読んだ内容を執拗に何回も繰り返し描写し続けるのも、読者にもうどうにでもしてくれという気分にさせるための手法だろう。当然コズミックで大どんでん返しが続いていたのも、すべては読者にもうどうでもいいやという気分を味あわせ、感覚を麻痺させるのが目的だったのだ・・・! なんて恐ろしい男だ清涼院流水。そんなことをしたらほとんどの読者がいなくなってしまうことも、当然わかっているはずなのに・・・! まるでエガちゃんのようなエンターテイメント精神に満ち溢れている。いやエンターテイメント精神には溢れていないか・・? 誰もがあきれかえったことだろう、そんな仕組みはどうだっていいから出来ればもっとスマートな物語に、わかりやすい物語にしてほしかったと。うーんしかしこれはどうなんだろうなあ。もっとよく考えなければ。ありとかなしとか以前に、必要か不必要か、もしくはそれをやらなければもっと面白くなるのではないか、わかってやっているのかひょっとしてわかってないのか。いろいろ検討すべきである。逆にシンプルに、入れかわりマジックも、執拗に繰り返す描写も全部やめてスマートな物語にした場合、このあり得ないことばかりが起きる世界観に突っ込みを入れることになるだろうか。このあり得ない世界観、十五、二十の驚きを用意して使ったとしても誰にも文句を言われないこの世界観を作り出すためには繰り返しの手法は効果的だったのだろうか。大いなる謎だ。
ここからは気になったことをあれこれとりとめもなく書いていく。最終的にいろいろあって、イヴの正体はY・Tであると明かされる。恐らく十九の幼馴染のあの人だとは思うが、高部優という可能性もある。「男は家を出れば七人の敵がいる、という。男の中の漢である儂なら、敵対する者は七億人は下らん」 さすがにかっこいいぜ、独尊。しかしお前絶対に黒幕だと信じてたのに、最後までただの凄いナルシストだったな。あと眠る事が出来ないっていう設定が出てきた時、こいつが不眠閃考を習得したら最強だなーとか思った。あと夜叉君のあの思わせぶりな前振りは結局なんだったんだろうな、不眠閃理。うん、あと正直いって十九がほんとにただ死んでたこととか色々突っ込みたかったような気もするのだが、すべてが終わった今となってはもはや何も言うまい。何しろ月はちょっとだけ落ちてきて人類を三十億人以上殺して見せたのだから。本当に人類にサヨナラだよ。確かこのノベルス版についていた帯はでっかく四文字でサヨナラ とだけ書いてあったんだよな。凄いセンスだ。読者が御大から大量にサヨナラしていく光景が目に浮かぶぜ。ああしかしなんなんだろうなこの感覚は。本当になんかもうなんなんだこれ。ほんとにとんでもない。これが全国のおうちの壁を破壊しないのは単純にあまりに重たすぎるからだよね。うん、まあ正直な話をすると本当に面白かった。こんなに分厚いから最低で二日、最高で一週間はかかると踏んで読み始めたけど、気がついたら1000P中700P読破してたからね。一日で読み終わってしまった。睡眠時間を削って。しかし信者からみてもラストのまとめきれてない感は凄い。たぶん御大はどの作品も全力を出してやっているのだから、まとめきれなかったとしてもそれは全力を出した結果だからしょうがないと思ってそうだ。まったく同意である。それからこれはまた全く別の話になってしまうのだが、清涼院流水を読んだのが1月の初めで、それ以降かつてないほどにミステリィをたくさん読んでいる。やっぱりそういう何か次に派生させる力っていうものを清涼院流水は間違いなく持っている。たとえば神林長平を読んだあと何かを創造しなくてはならない! というどこからともなく湧いてくるパワーと同じように。
さて、ようやく最後までたどりついた。本書最後の笑いどころは本編の外にある。これこそ流水流エンターテイメント。著者近影が読者を最大に笑わせるだろう。本が分厚すぎてページとして挿入できないのであとがきがこの位置になってしまいましたという律儀な説明から始まってその下にはなんと、変な細長い木の棒にかっこつけて座っている清涼院流水の写真が! なんだこの構図は! いったい誰が考えついたんだ! 先生にきまっているじゃないか! こんなわけのわからないかっこのつけかたをするのは先生以外にはおりませぬ! 読者はこの長い長い読書を終えてこの得体の知れない人間のかっこつけた姿を見て戦慄するだろう。こいつがこのトンデモ本を書いた妖怪か・・・! と。蛇足で余談だけれどこの無駄に長くてまとまってない記事は御大リスペクトです。