基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ディスコ探偵水曜日/舞城王太郎

ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日〈上〉

 全てのSF作家、文学作家は総自己批判しなくてはならない点がある。死んだ作家も含めてだ。このセリフは小松左京氏のパロディだが、こうして使わせて貰ったのにはわけがある。小松左京はこのセリフでアポロが月に着陸する様子を茶の間で日本国民が観賞するという風景を、小説にできなかったという点でSF作家に自省を促した。あえてこのセリフを持ってきた意図はSF作家としては知られていない舞城王太郎という存在に、時間に真っ正面から向き合った作品を書かれてしまったという点においてである。「虎よ、虎よ」「果てしなき流れの果てに」などで時間移動が誰でも使えるようになった世界というのは書かれているが、つきつめられていない。時間移動が行えるようになったことでのタイムパラドックスに真っ向から立ち向かっていないといえる。誰もが気軽に時間移動できる世界を書いたSF作家はかなり少ない。徹底的に時を移動するとはどういうことなのか、について書き切り、どこにでも時間を飛び、時間を操り、全てが出来るようになった時に向かう先が自己の内面だという事実をSF作家のみならず、文学作家も忘れてはならないのである。自己の内面について深く掘り下げ行くはずの文学が、抽象やらで直接的に語るのを避けてきた悪とか罪とかをそのまんま抜き身で表現していく凄さ。また「時間」と「空間」について書ききった点について文句無しの最高傑作である。意識を追及し、時間を追求し、世界の果てへたどり着く。正直舞城王太郎はこれだけのものを書いてしまって、今後どうしていくのかが心配になってしまったぐらいである。これ以上のものが書けるとしたら本当にすばらしいことだが、きっとやってくれるであろう。読んでいてあまりの興奮に体が躍り出しそうになったぐらいである。舞城王太郎がまるで、読書という限られた世界が狭いものなのではなく、いくらでも拡張していける、「意志」や「意識」といったものは無限に広がっていくものなんだぜ、とでも言っていると勝手に理解してこの本を読んでいた。意志と運命の相互作用がこの世の出来事となって生まれるのだ。意志を何一つ持たずに毎日をただ過ごせば、運命に引き寄せられていくだけ。踊りださなければいけないのだ。

 「よう、これが合図だ。動き出せ。踊り出せよディスコテック。急いでな。恐怖に立ちすくむような贅沢なんて、お前にはもう許されてないんだ」

数ページ読んで思い出したのは村上春樹ダンス・ダンス・ダンスだ。もちろん作品のテーマとしてディスコ→ダンス、と自然につながってくるものがあるけれど、それ以上に鮮明に頭の中に閃いたのはヒロインの存在感。村上春樹ダンス・ダンス・ダンスに出てくるヒロインともいえる女の子は「ユキ」13歳の女の子。まだ成長しきっておらず、色々な可能性をうちにひめている。時間が止まっていない。まだ成長し続けている。村上春樹の小説に出てくる中でも恐らく一番年下であろう「ユキ」に、当時読んだ時はかなり強く惹かれたのである。ディスコ探偵水曜日のヒロインは7歳の梢だ。舞城王太郎ヒロインズの中でも断トツに若い。「ダンス」という共通点よりもむしろこちらのヒロインが幼い、という点がひどく気にかかるのである。うーむしかし興奮しすぎてまったく書くことがまとまらない。すべてのスケールがでかすぎて、ついていくことができない。カリン塔に登っていく悟空を下からただ眺めることしかできないウパの気分とでもいおうか。こちらの期待を一身に背負って全力疾走しつづける舞城王太郎を見て興奮する一方で、どこかさびしさを感じてしまうのだ。ウパが寂しかったかどうかは別として。
純粋に面白かったセリフ

「じゃあ結果がわかってよかったじゃん。お前だよ。俺、十一年後の新聞で読んだからな、もう決定だよ」
すると出逗海以外の名探偵たちも驚く。「十一年後!」「新聞ですか!?」「凄い、そうか…もう未来予知とか透視とかそんなレベルじゃないんだ…新聞読めちゃうんだ」

これこそがまさに凄いところで、読んでいるこっちもああ・・・確かにもう未来予知とかいうレベルじゃねえんだな…と愕然とするのである。だって新聞読んじゃうんだから。誰もかれもが意識の持ちようで時間を操ることができるから、もう犯罪なんて一瞬で解決して名探偵なんていらない。空間だって作ったり広げたりできるからそこに子供を三億人もかくまったりできる。時間を細分化して一秒に何百もの子供を誘拐することができる。なかでも一番面白かったのは、時間が操れるもの同士のバトルである。時間が操れるもの同士のバトルでは、どちらがより相手の意表をつくかで勝負が決まるとかなんとか。そもそもどうやって戦うのかというのがまったくわからないのであって、さらにこいつらはわけのわからん方法でお互いに意表を突き合っているのでもはやほんとうに意味が分からない。勝利条件が何なのかもわからないのである。心臓を一突きしても時間を止めて巻き戻して固定すれば復活するわけであって御互いにその状況でどうやって闘えばいいのか? そういう凄さである、舞城王太郎の凄さは。舞城王太郎の作品が今まで文学文学と言われているのを聞いても、いまいちぴんちこなかったのだがこの作品ではピンときた。これは文学であって、SFであって、ミステリーであって、そのどれでもないのだ。舞城王太郎というジャンルなのだ。それが、わかった。

 人間の希望があの新世界を作ったことを踏まえて考えるに、もし全ての創造の源が希望、より良い世界が欲しいという気持ちならば、悪がどんなに生まれようとも、歴史の繰り返しがいくら物事をすり減らそうとも、世界は必ず良く生まれ変わるし、その生まれ変わりのの繰り返し自体の摩耗すらも希望は乗り越えていけるはずだ。
 そういう音楽(music)の中で、俺は小枝(muse)とともに今も踊り続けている。