基本読書

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カラマーゾフの兄弟 5/ドストエフスキー

カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)

「永遠に、死ぬまで、こうして手をとりあって生きていきましょう! カラマーゾフ万歳!」

カラマーゾフの兄弟ここに結! 素晴らしい大団円であった。胸が熱くなったよ。カラマーゾフ万歳! ありがとう! パチパチパチパチ ありがとう! パチパチパチ おめでとー! おめでとー! ってそれはエヴァンゲリオンやないかい! 

とにかく素晴らしい作品であった。こんなに作品にのめり込めるのはカラマーゾフの兄弟ぐらいしかないのでは、というぐらい。四巻まで訳者である亀山氏の読書ガイドがあまり楽しめなかったのだが、280ページにも及ぶ「ドストエフスキーの生涯」+「父を殺したのはだれか」は楽しく読ませて貰った。そしてなんといっても、訳に対して賛否両論あろうが読みやすさを追求した本書はやはり素晴らしいものであったと。そう思った。また亀山氏も真のドストエフ好きー(今自分が勝手に作った)のメンバーの一員であると! エピローグ62ページしか本編がないのにはちょっと失望したがこれはこれでありさね。

話題をエピローグの方へ移そう。公判が決まってからも、相変わらず紛争するアリョーシャである。各方面へ出かけ、取次。リーズが出てくるかとわくわくしながら読んでいたのだが、結局最後まで出てこず。そして、コーリャとアリョーシャの対話。この二人の対話だけは、どれもが存在しない二部へとのつながりを感じさせる。アリョーシャとコーリャの対話の中でひときわ目を引いた部分があったので引用する。

「もちろん……人類全体のために死ねたらな、って願ってますけどね。でも恥さらっしになったからって、ぜんぜん気になんかしませんよ。だって、ぼくたちの名前なんて、いずれ消え去ってしまうんですからね。ぼく、あなたのお兄さんを尊敬しているんです!」

ドミートリーが無実の罪で死刑にされると聞いて言った言葉である。真実のために死ねる、それはなんてすばらしい事だろう! つまりはそういうことである。なるほど確かに。人類を救うために自分は死んでもいいかと問いかけた時に、今までは100パーセント「ヤダ」と答えるはずであった。しかしこのコーリャの返答を見るにアリかな、と思ってしまった。いつかどうせ死ぬんだから、だったら人類を救うために死んだ方がかっけえかな、と。名前も多分アインシュタインと同じぐらいには残るだろう。ミーム的な視点に立った時に、身体は死すとも情報的な死はかなり遅くなることになる。なにしろ人類全体を救ったのだから。もちろんコーリャが言っているのは真実のために死ぬことであって、地球人類を救って死ぬことではないのだが。真実のためには死ねねえなあ。

コーリャとアリョーシャの対話には毎回こみ上がってくるものがある。コーリャはライ麦のホールデン少年を思い出させる。そして子供がいい事を言ったとしてもなかなか受け入れられないのは、子供に下地がないからだなと思った。少し前に小説家を志すあなたが、「夜がきた」と書いてはいけないワケ。というエントリを読んだ。ここでは、夜がきたと書いていいのは様々な表現方法で夜が来たことを表現できるようになってからでないといけないと言っている。それは何故かといえば、多くの表現を積み重ねてきたものには『夜』の象徴がつかみとれるようになり、夜がきたの重みが全く違うという。詳しい事は読んでもらうしかない。コーリャに無いのは象徴をつかみ取れる表現の基礎であって、子供が色々な場面で軽薄だなあとか中二病だなあとか思ってしまうのは、下積みがないからか。などなど考えていた。あまり関係はなかった。

そして何よりも、最後のアリョーシャの演説。でんぐり返りしたくなるような感動であった(なんだそれ。)最後のコーリャのかけ声で、カラマーゾフ万歳! というところ(一番最初に引用したところだ)などは電車の中にも関わらず立ち上がってばんざーい! とやるところだったわ(さすがに冗談である)。最後に、一巻を読み終わった時にきまぐれで始めた好きなキャラクターランキングでもやっておこうか。正直みんな好きすぎて、というよりもキャラクターなどの縛りを超えてみんな好きなので意味をなさない。しかし一巻の時点で読み終わった時の感想が楽しみだと書いている。過去の自分の期待ぐらいには、応えてやらねばなるまい。
1.グルーシェニカ
2.コーリャ
3.アリョーシャ
4.ミーチャ