はじめに
戦闘妖精雪風、敵は海賊シリーズが有名だが一般の人間にまでは知られていない神林長平。しかしなお根強いファンが大勢いる(はず)。もはや日本SF作家クラブの会長であって、もうちょっとなんかこう、色々あってもええんじゃないかな? と思うのだが話題になることが少ない。Wikipediaも驚くほど簡潔な内容しか書いていないし。Amazonのレビューも10を超える事がほとんどない。最近新作を出していないということもあるが(正義の眼が出た時は久しぶりの敵は海賊シリーズだということでネットでも盛り上がった)ひょっとしたらあまり読まれてないんじゃないのかしらん? と思い、とりあえず魅力でも語ってみるかと思った次第である。そもそもこの魅力、神林長平の場合非常にわかりづらい。何故わかりづらいのかさえもわからない。その辺も含めてちょっと。
神林長平作品を読んでいて誰もが一度は思う事がある。
どれもこれも同じ事を書いているじゃあないかということだ。
だが、決して単純に全部が同じものではない。それどころか中身自体は全く別物といっていい。宇宙を又にかけて海賊と海賊課(警察みたいなもん)が戦う話があれば、アホなことばっかりいう戦車と、漫才ばっかりしている二人の兵士の話がある。現実から逃げて夢の中で楽しく生きればいいさ、なんていう作品があれば、あくまで現実を生きろという作品もある。とにかく色々なシュチュエーションの作品があって、その目指しているところはてんでばらばらだ。
向かうところは確かに、ばらばらである。しかし、出発点はみな同じだ。真っ直ぐ伸びていけるところまでいった作品もあれば、くねくねと曲がりくねって変なところで終わった作品もある。そもそも出発点とは何か? と問われても、自分にはうまく言い表すことができない。言語だ! 哲学だ! などと神林長平作品のテーマはあるけれども、それとも違う気がする。いうならばこの曖昧模糊とした感覚そのものが出発点なのだ。言葉にしてしまった時点でそれは定義され、本来の意味を失う。このあやふやなものが神林長平であり、神林長平作品の出発点は神林長平なのである。神林長平は、神林長平言語で物語を綴っている。絶対唯一の小説家なのだ。とりあえずそんなところから書いてみたり。以下略
魅力その1.普遍(不変)のテーマ
神林長平の出発点は神林長平である。まずその意味から始めよう。
世の中には決して理解できないものがある。
その理解できないものに対して、ありとあらゆるアプローチをこころみる。能力をふるに使い、理解できないものを理解しようとするのが神林長平作品に共通するテーマである。そうしてその行為はとてつもなく面白い。答えの出ない問いばかりだからこそ、どこにでも向かっていけるし、突拍子もないこともできる。『理解できないもの』というのは多くが哲学の分野に散らばっているので必然的に哲学的な問題を扱うことになる。理解できないものがある、と認めたうえで、しかしそれを表現することができると突き進んでいくのが神林長平なのだ。それは時にまた同じかよ、という気を起こさせるのだが決して飽きさせない。それはアプローチが毎回違うからである。
『言葉使い師』という短編の中で、芸術について語っている部分がある。曰く芸術とは脳の中身を自分で実際に確かめる行為だと。自分で見て、触ることができない。だからこそ創造、芸術という行為を使って世界に具現化して、確かめられるようにしている。神林長平がやっているのもこれとひとしい。全作品がその挑戦の結果である。
何冊も読んでいると、ああこれはちょっとつまらなかったな…と思う事がある。しかし読んで損したとは全く思わない。それは何故か? まったく関係ないようだが、北方謙三の三国志から曹操の言葉を引用する。
「私も、負けた。完膚なきまでに、負けた。この姿を見れば、それはわかろう。しかし、私は闘って負けた。そして諸君は、闘わずして負けたのだ。私は、闘わずして負けた諸君に、訣別を告げる」
神林長平の作品からはこの気概を感じる。闘って負けた。例えあまり面白くなかったとしても、そこには闘った痕跡が見られる。だから他の作品も読んでみよう、という気にさせるし、当たった時はでかい。
魅力その2.神林言語が素敵。
前述した神林言語とも共通する。神林言語とは何か? 神林長平が多用する代表的な言語のことか? それももちろん、含む。かしらん? やらふむん。というのは今や神林長平の会話文で代表的なものになっている。だがそれだけではない。文章それ自体が独特なのだ。それを神林言語と呼ぶ(自分だけ)。たとえば初期の短編『ビートルズが好き』これは文章のリズムが異常に良く。読んでいる最中に本当に音楽を聴いているかのような錯覚に陥った。物語を構築しているというよりも、文字を見た目で選び、視覚的に、また読んだ時に気持ちが良くなるようにというのを基準に並べたのじゃ? なんて思ったぐらい。実際にインタビューでこの作品について語っている。文章を組み立てるのに夢中でそれが構築されたものが二の次になってしまった。これはある意味デビューしたての頃、まだ技術が未熟だったからだろう。成熟した神林言語は、物語の構築も負けていない。
また文体特徴の一つとして、圧倒的なオリジナリティが挙げられる。『ぼくの、マシン』という戦闘妖精・雪風の主人公である零の若い頃の話が書かれた短編がある。その中で零は、自分だけのパソコンが欲しかったといい(この世界ではパソコンは共有するもので、自分だけのパソコンというものはなかった)OSを改造し、自分以外には使えないようにした。その結果危険思想だとして逮捕されてしまう。神林長平と零が重なるのはこの点だ。神林長平かく語りき
自分の言語を作って、自分の世界を作ってみたいと強く思った。きっと若いうちはそうなんだろう。普遍的な人生経験がないから、世間というものがわからない。わからないなら人工的に自分の世界を作ってしまえ、と。
ここだ。神林長平の凄い所は、例えるならば多くの小説家がマックやウィンドウズを使って自分流にカスタマイズしてオリジナリティを出しているのに対して、OS自体を作ってしまったところにある。最後に、蛇足だが氏の作品でも一、二を争うぐらい好きな会話文をあげておこう。
「わたしね、ダイヤが欲しいの。大きな。ティファニーでとはいわないけど、質流れじゃだめよ、蘭子がねえ、すごくきれいなダイヤをね、みせびらかすの、わたし、くやしくって」
「相手をよく見てからいえよ、紅子。おれは腹も出ていなければ成金の親父もいない。ダイヤだ?ティファニー? なんだ、それ、何語だ? 通じないな。食うのにせいいっぱいだってのに、冗談はやめろ」──狐と踊れ
魅力その3.創造することを強いられる点。
このブログを作った理由は、神林長平の『膚の下』を読んでいてもたってもいられなくなったからだ。氏の作品を読んでいると誰もが創造することを強いられる。その理由について長い間、氏が創造することの素晴らしさを説いてきたからだと思っていた。尊敬する書評家がほめている本を読んでみたい、と思うのと同様、尊敬する作家が推奨する行為ならいっちょやってみるか、と。もちろんそれもある、それもあるのだが、それだけではない。この創造することを強いられる感覚は、異常だ。吸引力が、並ではない。理由はもっとたくさんあるはずだ。たとえば氏の作品にはこんなセリフがある。
考えてみれば、ああいわれてみると、たしかにおれはなにも創造していない。人間が生んだものは山ほどある。でもおれが創ったものはなにもない。船やコンピュータやレーザー発振器や本や医療品や風船製造機や千倍麦やパンはだれが発明した、人間だ、しかし俺じゃない。数え上げれば星の数ほどあるだろう。使って食って利用する、その中に、おれの創造物はひとつもない。ひとつも。
突きつけられる。ああ…確かにおれってば…何一つ創造なんてしたことがないな…。これは、攻撃だ。これが創造行為を強いる一つの特徴。別の理由については、『魂の駆動体』を読んでいる時に気がついた。魂の駆動体は、車が全自動のみになり、運転する楽しみがなくなってしまった世界で運転できる車を作ろうとする話だ。
無いなら作ってしまえ、という氏の持ち味が最大限発揮されている作品でもある。余談だがこのあり方は、神林長平そのものだと感じる。便利になってしまった世界で、あえて面倒くさい作業をやることに楽しみを感じる──。無いから作ってしまう・・・。うまく説明できないのだが、こういうところに自分は惹かれているのだなあと…そう感じた。
『魂の駆動体』の中で、おじいさん二人が必死に車を作っていく。その過程は念いりに描写されており、まるで自分自身も車を作っているかのように感じる。ここだ。この部分だ。まるで自分自身も作っている感覚。これこそが自分が神林長平作品に感じる、創造行為を強いられるのは何故か? に対する答えなのだ。僕たちは氏の作品を読む時に、氏と一緒に作品を作っているのだ。もしくは魂の駆動体の中で車を作っているように、何かを作っているのだ。そして理解できないものに対してキャラクターが思い悩んでいる時に、一緒に思い悩んでいるのだ。そうして、読み終わった時に自分でも知らないうちに創作の楽しさを体験している。楽しいことを知ってしまっている。だから創造したくなる。このコミット感こそが、氏の作品の魅力なのだ。
ちなみにこの魂の駆動体は、氏の作品でもベスト3に入るほど大好きなので超お勧めである。最後に、作り上げた車が××するところなど魂が飛翔するほどの感動だ。
最後に
自分的神林長平BEST3作品と簡単な紹介でも。
1.『膚の下(クリックで感想に飛びます)
『あなたの魂に安らぎあれ』『帝王の殻』からなる火星三部作の最終作である。しかし、時系列的には一番最初である。この作品を語るのに言葉は多く必要ない。最初の一文から引き込まれ、長大な物語にも関わらず時間を忘れて没頭させられる。『膚の下』はこんな文章から始まる。
雨が降っている。作戦行動中に降る雨は嫌いだ、と慧慈軍曹は思う。兵舎でのんびりと本を読む時などは、雨は優しいのに。実際に濡れるのはいやだ。演習時に雨に祟られるのはかなわない。実戦ならば仕方がないのだが。
慧慈は物語の主人公だ。彼は不幸な目にたくさん遭遇するが、そんな慧慈のがんばる姿は読んでいてとても楽しい経験だった。
2.今宵、銀河を杯にして
毎日毎日酒を飲んで、女におぼれて、戦闘になったら真っ先に逃げるような戦車兵2人と、真面目一辺倒で、自分の思想には死んでも殉じるというような少尉と、それから自分で考える事の出来る、戦車マヘル‐シャラル-ハシ-バズの物語である。笑える、といった指向に注目すれば氏の作品では一番である。SFギャグ小説と銘打たれた『親切でいっぱいな星』よりも笑える。それでいて扱われているテーマは重厚。傑作。
3.魂の駆動体
車作る話。誰もが、常に自分達は縛られていると感じる。地上に縫い付けられている。言語化できない何かに、真綿に締め付けられるように日々を送っている。楽しいことがあれば、一時は忘れられるかもしれないが、いつもいつも楽しい気分でなんていられない。魂は解き放たれたがっている。本能のままに、生きたがっている。車を通して、魂の解放を表現した傑作だ。
神林長平と伊藤計劃
最後の最後に余談だが。氏の作品は時に人間が書けていないと揶揄されることがある。その評を聞いてすぐに思い出すのは、伊藤計劃だ。この二人の作品はどこか似ている。まあそんなこといったら氏の作品は割と誰とでも似ているのだが(円城塔とかも彷彿とさせる)、伊藤計劃は特にその色が強い。伊藤計劃の『ハーモニー』を読んだ時に、自分は感想でこう書いている。
神林長平作品を読んでいるとこちらは創造することを強いられる。伊藤計劃作品を読んでいるとこちらは考えることを強いられる。何かを突き付けてくる。これが文章の攻撃力とでもいうべきものだ。
二人に共通している『人間が書けていない』という評。しかし二人とも人間を書けないのではなく、書いていないのだ。SFレヴュアーの冬樹蛉は、このことについてこう語った。
神林長平はむしろ「人間を描かない、人間が中心でない」方向へと過激に作品世界を推し進めていった結果、人間を書いていたのではけっして書けなかったであろう人間の姿を書きだしていった。
この二人の在り方は、出発点というかなんというか。そんなところが非常に似通っていたように思う。