基本読書

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告白/町田康

告白 (中公文庫)

告白 (中公文庫)

 ええ、実をいうと賭けをしましてね。daenさんと。つまらなかったらリクエスト再開するなんていうので、こりゃあたとえ面白かったとしてもわざとつまらんと言っておいた方がえーんでねーかな? なんて一瞬考えてしまったのですが、そんなこと言ってられないぐらい面白かった。

 負けた。完膚無きまでに負けた。こりゃ大傑作ですわ。なんというか、人から勧められた本というとある程度乗り越えるハードルが高くなってしまうのだけれども、そんなの飛び越えていく力強さがあった。ハードカバーで676ページという長大な作品だけれども、何の問題もない。

 この小説は<河内十人斬り>という実在の事件を題材としている。読むまで知らなかったのだが、壮絶な事件である。概要と説明すると明治二十六年の五月二十五日に、城戸熊太郎っちうヤクザ物が谷弥五郎っちう同じくヤクザ物と一緒に、金と恋の恨みじゃー! つって十人を(Wikipediaだと11人?)殺してえらいこっちゃーといったような感じだ。

 おもにこの事件を引き起こした城戸熊太郎を主人公として語られる。幼少の生い立ちから始まって、どのようにしてヤクザ物城戸熊太郎として育っていったか。正直いって熊太郎は本当にダメなやつで、まるで福本伸行の『最強伝説 黒沢』そのままではないか、というぐらい。黒沢はあまりに怠惰な人生を送った後で、人望が欲しい! と思いたち人生を変えようと奮闘する。熊太郎も似たようなもんで、しかしもっと利己的な理由で(このあたりは読んでくれい)人にいいことをしようと思いたつ。ああ、だがしかし黒沢と決定的に違う点は、この物語に流れる全体的な破滅へと向かう空気だ。実際の事件の顛末を知っていればそれはそうなのだろう。しかし自分は河内十人斬りの内容を一切知らずに読み始めた。ゆえにこれは作品自体が持つ空気だ。

 熊太郎は博打を打つしかやらないし、まわりのみんなが農作業をしていても博打を打って金をすってくることの繰り返し。やたらと思弁的で、色々なことを考えるのだがそれをうまく口に出すこともできず、誰にも本当のことをいえず、それゆえ誰にも理解されることがない。だがしかし一ついいところがあるとすれば、それはあくまでも真面目なことだ。今まで何度騙されても、金を貸してやる。どじょうが死にそうだったら、買い取って川に流してやる。本当に悲惨な人生を送っているのだが、根っこが腐っていない。

 彼は物語の主人公だ。普通の物語だったら、人に罵倒されようが、人に理解されなかろうが純粋に生きている熊太郎は報われる。どこかで得をする。今まで得てきた損を補って余りある幸せを手に入れるだろう。だが本書でいえばそんな気配は微塵も感じられない。彼が一見幸せに見える状態になっても、不幸への序曲としかいいようがない不吉さに満ちている。それは何故かというと、人より真面目に生きたからと言って人より得をするなんていうことが、現実ではあり得ないからである。この物語の中にあったのは、どこまでもシビアな現実だ。読んでいて熊太郎あまりにダメなので、この幸せが続くはずがないという確信を抱かざるを得ないのである。そのあたり、どこまでも徹底的にダメ人間に書かれている。

 読んでいる間中、腹がきりきりと痛かった。人間失格などを読んでいるときもそうなのだが、破滅に向かっている物語を読むとよくこうなる。何もかもが死亡フラグに見えて、ああもうやめてやめて熊太郎ををこれ以上いじめないでヤメテー! と思いながらも読むのをやめることができない。さらに、主人公は人間ならば誰であろうと共感せざるを得ないダメさを持っている。しきりに熊太郎と自分を重ね合わせ決定されているある一点に向けて爆走していくのである。止められない。当然最後の最後まで熊太郎は報われることはない。だが読み終わったとき、これでようやく救われた──。と思ってしまった。一見凄惨な末路だが、自分はそこに、人間失格を読んだときのような、救われなさを感じ取ることはできなかった。どこまでもこの結末に肯定的であった。最後の最後に至るまでに、延々と熊太郎は悩み続ける。この長大な物語の中で読者がつい忘れてしまわないように、それは繰り返し語られる。それは時に流れを無視して唐突に現れるが、熊太郎の思弁的な性格といういところが幸いしてそれ程不自然ではない。とにかく常に何かの不安を抱えていて、それは人を殺したことが露見するのではないかといったものだ。人を殺して、それが誰かにバレるかもしれない──。熊太郎は悩みまくって、それを読んでこっちはうわぁぁもうそんな悩まんでええってほんまにいいなんて絶叫しながら読み続ける。悩み抜いて最後にまた悩んで出した結論として、最後の最後まで自分は利己的な人間でしかなかった。一秒も他人のことを考えたことが無かったという独白は、このことについて真剣について思弁し続けた人間にしかできない結論である。そして誰もがそんなことを了解しながらやっているのに、熊太郎はそれさえも自分の負債であるとして背負っていく。

 ダメなのだ。そんな思考をしていたらどう考えたって人間生きていけないのだ。本来人間は利己的な存在なのであって、それをダメだと責め出すのはまるで飯を食っている俺はクズだ…。といっているようなものだ。だから本来そんな思考は途中で誰だってしょうがねーか、と妥協して生きていくものであって、戦ったら、行き場のない思いは爆発するしかないのだ。そういった細かい心理描写まで含めて最高の小説である。

 構成がパンク侍の時とほとんど同じだ。ぐるぐるぐるぐる、同じところを回りつづける→突如、本能の暴走としか言えない暴動行為が起きる→二人っきりになる→一人になる。 いなくなる。ああそれにしても暴動が起こる場面の描写は圧倒的だ。何故こんなものが書けるのか。これは小説なのか。これだけ人間の思弁をごにゃごにゃごにゃごにゃ書き続けられるものなのか。暴動が起こった後、しばらく熊太郎の思弁が無くなってしまうが、そこの寂寥感は半端ないものとなっている。今までずっと熊太郎の思弁と一緒だったのだ。息を吸えなくなったのに等しい。しばらくして熊太郎の思弁が再会される。そこにはかつての、どんなに絶望的な状況にあっても死を選ぶという選択肢が全くなかった熊太郎はいなくて、死を予感させる。その思弁、凄まじいものがある。思えば本当に最後の方まで熊太郎は、死にたい、なんて一度も考えたことが無かった。なんで、なんでと問い続けてきただけだ。なんかまったくまとまっていないがまとめられるはずもないのでとりあえず今はここで。

 生きるということはしょせん罪を重ねるだけなのか? 俺は善いことをして生きたい。

 この物語のラストは、個人的には熊太郎への救いだと思っている。