基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

1Q84 BOOK 1.2/村上春樹 ネタバレ有 雑感

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

ネタバレ無

感想

 まあ自分象徴とか、メタファーとか、伏線とか全く考えていないので分析的なアレは全く出来ないのですが簡単に思った事でもだらだらと(先制攻撃的言い訳)。序盤は不思議な国のアリスそっくりで、違和感ばりばりだったんですけれども次第に元に戻ってくるのは印象的。全体の流れとしてはやっぱりセックスが重要なキイになっていたり、30歳で予備校講師とかいう社会的ステータス皆無な男が17歳の超美少女とセックスしたり自分のことを20年も一途に思い続けていてくれる女の子がいたり、もう一人の主人公の女の子も40歳前後のはげかけた男が好みっていう世の中年男性が飛びあがって受け入れそうな、主人公の年齢を除けばそれなんてエロゲ? とでもいうような展開なのだが不思議と受け入れてしまう。というかセックスしまくり、エロゲ展開すぎ、というのは『あらすじ』だけを読んだらそう思うだけであって、実際に読めばそこにはちゃんとした意図と象徴があってのことなので簡単に受け入れるのだろう。自分の中でのこの物語は今のところ、世界の終わりとハードボイルドワーンダーランドに続いて二位か、もしくは同列一位といったところ。Amazonのレビューを読んでいておもったのだが、確かに読後にどっしりくるものはない。読んでいる最中はひたすら楽しかったのだが。何故だろう。まったく理由がわからない。しかしキャラクターに感情移入できない、といって批判のようなことをしている人がいるのには変だなあという気がした。それはひとつの意見としてはありだけれども、なんら意味をもちえない。伊藤計劃は自身のブログの一エントリー、信用してはならない映画評の見分け方でこう書いている

 あと「感情移入」できない。これはてブのコメントで教えてくれた人がいましたが、確かに映画評としては使ってはならない単語ベストワンぐらいに位置する最悪バカワードではあります。「感情移入できないのでだめ」確かにこれはまずい。非常にまずい。言ってしまったらあしたから白眼視されるのを恐れたほうがよいでしょう。なぜなら、映画の機能として、観客を登場人物に感情移入させることは、まったく重要ではないからです。現にわたしは感情移入しないで大抵の映画を見ています。──誰も信じるな

象徴?

 象徴的なものといえばねこのまち 空白 現実と物語 拳銃 からす 月 それから最後の方の妊娠したねことか。妊娠した猫…? 猫の町…? 青豆は死んで生まれ変わったのか? 月の説明として、二つは常に等間隔を維持し決して重なることはない、というのは青豆と天吾のこと? などなど。エルサレムスピーチでいっていた壁と卵の話でいう、『システム』もここでは教団という形をとって出てくる。とにかく象徴的で、それらについて考えてるだけで時間がつぶせる。

青豆は?

 本書の中では、物語の中に必然性のない小道具は持ち出すな、というチェーホフの言葉が引用される。拳銃を青豆に渡した時に、タマルが言った言葉だ。拳銃が出てきたら、それは撃たれなくてはならない。対して青豆は、これは物語じゃない、現実の世界の話だ(だから撃たれなくてもいい)、と答える。タマルの返答は「誰にそんなことがわかる?」というものだった。読んでいるこちらからすれば彼らの存在している世界は現実ではないということになる。しかしそれは彼らには知覚できないし、知覚できない以上彼らはそこを現実だと思って生きていくしかない。もし突然天から「お前たちの世界は仮想世界だ」という声が降ってきても、中の人たちからしてみればその世界しかないのだから、だからなんなんだと誰もが思って日常生活を営むだろう。常に現実は一つだ。えーと、つまりなんだ? なにが言いたかったんだろう。そう、つまりは発射されなくてもいいということだ。現実は一つしかない、異世界だろうがなんだろうが、人はそこで生きていくしかない。だから、青豆の拳銃は発砲されなくてもいい。

何故これほど売れているのか。

 1Q84、凄い売れ行きである。森博嗣も水柿君シリーズで書いていたように、本の売り上げに内容の良さは全く関係がない。買う前に本の内容を全部読む人はいないのだから当然である。その証拠に今回は、評判が広がる前、予約段階からしてすでにベストセラーが確約されていた。売れる要因は作家の名前だけである。今や日本で一番有名な作家であり、つい最近ノーベル賞をとるか、とらないかで話題が沸騰したこともあって比較的ベストタイミングといっていい時に発売されたからだろう。完全に村上春樹という名がブランド化してしまった感がある。しかし何故、とかわざわざ問いかけるほどもない普通の結論だったな…。

続編はあるのか? 『五分後の世界』と『1Q84

 読み終わって真っ先に思い出したのはドストエフスキーカラマーゾフの兄弟そして村上龍『五分後の世界』だった。後者は完全にただのポッと出の思いつきなので特に意味はないのだけれども、どちらもその先を感じさせながらも終わってしまった作品だ。カラマーゾフの兄弟に関しては意図せずの未完ということだが、五分後の世界は意図しての終了である。五分後の世界で主人公は異世界へ飛ばされ(まさに1Q84ではないか)自分の世界へ戻ろうと奮闘するのだが、しかし諦めざるを得なくなる。そして、異世界で闘っていこうと決心し、時計を五分戻す。(その世界は元の世界より五分だけ先に進んでいるのだ)。そこで物語は唐突に終わりを告げる。

 1Q84も多くのことが符合する。主人公の一人である天吾は、最後に異世界にいる自分自身を受け入れて、もう一人の主人公である青豆をみつけよう、と心に決める。

 青豆をみつけよう、と天吾はあらためて心を定めた。何があろうと、そこがどのような世界であろうと、彼女がたとえ誰であろうと。

 そして当の青豆は、異世界へと入り込んだと思われる当初の場所に赴き、出口がすでに失われていることを発見する。そして、もっていた拳銃を口の中に入れ引き金を引く指に力を入れる。そこで終わっている。さてどうなんだろう。回収されていない伏線があるとすればそれは回収されなければならない。あるのか? ないのか? どうなんだ? カラマーゾフの兄弟は次回作が想定されていたようだが、書かれる事はなかった。しかしカラマーゾフの兄弟は、あれはあれで完結している。それと同じようにこの作品にも次回作が想定されているのかもしれない。しかしここで終わっても個人的には何の問題もないと思った。うまく説明できないけれど、どちらの行く末もすでに暗示されているのではないか。まあ上巻下巻ではなくBOOK1 2となっていることだし次回作がある可能性も充分にある。

善と悪

 「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」と男は言った。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換されるかもしれない。逆もある。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』野中で描いたのもそのような世界の有様だ。重要なのは、動きまわる善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾きすぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ」