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アイデンティティを証明することに躍起になる人々

アイデンティティ・ゲーム―存在証明の社会学

アイデンティティ・ゲーム―存在証明の社会学

はじめに

 ちょっと面白い内容だったので上の本の内容を簡単にまとめてみる。最初の前提として、人々は「自分は価値ある特別な人間なのだ!」ということを証明することに人は没頭するあまり、数々の残念(御自由に想像ください)な出来事が勃発してしまう、というものを挙げている。これは要するに世間一般の、平民、愚民、つまり我々である。さて、愚民から抜け出すにはどうすればいいのか、そもそも愚民であることをやめる必要はあるのか? なんてのが本書の内容であろう。

いったい何を証明したいっていうのか

 愚民どもが躍起になって証明したがっているのは「自分がいかに価値のある人間であるか」ということ。たとえば常日頃から忙しい忙しいと連呼する人などがそれにあたる。本当に価値がある人なら忙しいとしても、価値がある人間の真似をして忙しいフリをしているだけだろてやんでーてめーなめてんじゃねーぞということ。私見だが能力のある人間は忙しいなんて言わない。能力、つまり価値がある人は自分の能力をはっきりと把握して、仕事量をコントロールし、要領よくこなすだろう。そういう人たちは、忙しい状態になどならないはずである。

存在証明の四つの方法

 第一の方法として「印象操作」があげられる。自分のマイナスの側面を認識している場合に、それを必死に隠そうとする行為である。たとえば同性愛者が、そういった特性がマイナス要因として扱われる社会で本性を表に出さないようにするなど。根は暗い人間が明るく振る舞ったりするのも印象操作として挙げられる。これの問題点は、マイナスを隠すことによってマイナスが増幅すること。偽ってる自分──なんて考えだしたらもう目も当てられない。

 第二に「名誉挽回」である。価値がない自分が嫌なら、価値がある自分にすればいいじゃないという理屈で、資格を取ったり能力を磨いたりと。価値を手にしているかのようにふるまう印象操作と違って、名誉挽回は普通の方法で、また社会的にも奨励されている。至極まっとうな方法に思える。人間が突き動かされるのは主に名誉挽回のためなことを考えると、これがないと社会は成り立たないように思える。
これの問題点は存在証明のために人生の大半を犠牲にしかねないということ。

 第三。「開き直り」あるいは「解放」俺がダメだって? じょーとーじゃん。ダメでケッコーコケコッコー。てのが開き直りである。わざわざ説明されなくてもわかると思うけれど。同性愛者である人間が、自分からカミングアウトするようなことである。おれ? ホモだけど? それがどーかした? てな具合に。これの問題点は自分の意識の変容という見えない分かりづらいものを扱わないといけない点で、開き直ったフリ、にしかならない場合が多々あること。おれ? ゴミでクズでウソツキで変態だけどそれがどーかした? みたいなことは、なかなか堂々と本気では言えないものである。

 第四は「差別」価値のゼロサム・ゲームが行われているという世界観に自分を置き、相手を貶めることによって自分の価値を高めるのがこの方法。存在証明がうまくいかず躍起になっている人々が差別的なのはこういう機能があるからというわけ。そして差別され方はまた自分の価値を高めるために存在証明を必要とするので、非常に循環的である。これは他の三つと比べれば割とコストパフォーマンスがよくて(孤独になるリスクが高いとしても)、誰もがこの方法に頼りやすい。集団で個人のイジメなんかやるのは孤独になるリスクを無くしつつ、自己の特別化をはかる戦略と言えるのかもしれない。

存在証明すんのやめれば?

 そもそもなんでわれわれが存在証明にこれだけ熱心なのかといえば、自分という存在そのものに何の価値もないと信じているからであって、自分に価値がない価値がないと思いこむほど存在証明はヒートアップする。自分に存在価値があると思っていれば、存在証明へとつながる行動なんて必要ない。もし仮に印象操作も名誉挽回も開き直りも差別もやめたら、かなりのエネルギー節約にならないだろうか? しあわせの青い鳥を外に探しに行ったけどいなくて、家の中にいたとかいう童話を持ち出すまでもなく自分が、自分であるが故に価値があるとしたら? しかしまあそれも「開き直り」であって、結局のところ存在証明していることになるのである。魔王からは逃げられないように存在証明からは逃げられない。

 だけどまあ、存在証明に追い立てられているからこそ人間は信じられないほどのパフォーマンスを示すことがあるし、自分の存在証明を行いながら本来の自分の目的を達成していくこともあるよね──そんなことが、本書では語られている。

 抽象的にいえば、自分の存在価値一単位が傷つくのを許しておいて、何倍もの存在価値を獲得するためにその「傷」を利用するという戦略を人は駆使しているのである。