基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

 内田樹による教育論です。何故かスターウォーズについて語ったりもします。元々そういう気質なのか、話があっちゃこっちゃに飛びます。まあ話しが飛ぶのも結構面白くて、たとえば文化資本についての話なども面白かったです。下の方の階層の人たちは、文化資本(ここでいう文化資本とはどれだけ本や音楽、絵画などに対する造詣のこと)が豊かにある人が存在することを知らない。日本人はみんな自分程度だと思っている。しかし「教養のある人」がどこかにいると知っていれば、自分には教養がないということがわかるし、身につけないとまずいということもわかる。階層が下の人は下の人としか普通知り合えませんから、上があることに気が付けず、モチベーションが保てないので努力もしません。結果格差は広がり続けます。これが耳に痛い話でつい最近まで自分も教養が無いなんて考えたことが無かった。今焦って色々始めていますが明らかに出遅れです。これはつらい。気がついただけ良かったかもしれませんが。
目次

第1章 学びからの逃走(新しいタイプの日本人の出現
勉強を嫌悪する日本の子ども ほか)
第2章 リスク社会の弱者たち(パイプラインの亀裂
階層ごとにリスクの濃淡がある ほか)
第3章 労働からの逃走(自己決定の詐術
不条理に気づかない ほか)
第4章 質疑応答(アメリカン・モデルの終焉
子どもの成長を待てない親 ほか)

 何故学校で勉強しなければいけないのか。この問いに答えているのが本書だと思いました。もちろん書いていることはそれだけではなく、教育全般に渡っているのですが大筋はこれかなと。そういえば僕も小学生の頃はまだしも、中学高校の頃はしょっちゅう問いかけていたものです。何故学校でこんな無駄な、意味のない時間を過ごさなくてはいけないのかと。その問いに対して内田樹先生はこう答えます。『そういった質問には絶句することこそが正しい』どうして学ばなければいけないかという質問は、日本憲法25条である生存権について「どうして健康で文化的な生活を営まなきゃいけないの?」と聞いているようなものだというんですね。その問いは、誰もが想定していなかった問いです。なぜなら誰もが学ぶ権利があるのは喜ばしいことで、学ばない方がいいという世界観の中にいないわけです。自分が学びを受けられる立場にいる恵まれた存在であると気が付いていない人間だけがそんな事を言えるのです。

 そういった問いに対して今の大人は、子供に対して功利的な動機づけで子どもを勉強させようとします。勉強すればいい大学に行けて、いい会社に入れて、安泰な人生を送れるのだと。こうして子供たちは、教育を等価交換だという世界観を作り上げていくのだ、というのがまあ主なところでしょうか。そんでもって功利主義に誘導されしぶしぶ勉強してきたものの、今やいい大学に行ったからといっていい会社に入れるとは限らない、いい会社に入れたからといって人生安泰じゃない…そんな状況が、今現在です。黄金ロードが無くなってしまった若い人たちが次に飛び付いたのは、もう好き勝手生きてやる! です。アリとキリギリスでいう、アリが推奨されていた時代からキリギリスのように、死んでもいいから毎日楽しく遊んで暮らすのが良いとされる時代になっています。

 で、キリギリス的価値観に生きるならば楽しまなければ損です。ですから、自分のやりたくないことを押し付けてくる教育に対して『で、これは何の意味があるわけ?』と質問する。俺が、私が苦痛+時間を犠牲にしてお前のつまらない話を聞いてやる見返りは何なの? と。完全にお客様気分ですね。実際多くの学生は自分たちはお客様だと思っているわけです。日本国憲法では、教育を受けるのは権利であるのに今の子供たちに教育は義務化、もしくは権利かと聞くと、義務だと答えるパターンが大多数だそうです。

 私は自分がその価値を知っている商品だけを適正な対価を支払って買い入れる

 消費者としての子供はこういった態度で教育に望む。そして一回一回の授業が退屈で、見返りが目に見えないものであると反抗の態度として授業を無視したり、おしゃべりをしたりします。ここで重要なのは、学びとは市場原理によって基礎づけることができない、ということです。買い、売りというのは基本的に等価であることが絶対条件です。買う側は、買う前に売っている側の品物を見定めてから買うことを決定します。これが、教育の場合通用しない。なぜなら買う前にはこれから何を学ぶかということを知らないからです。

 母語を習得する時のことを考えてください。母語の習得は私たちは母語を知らない段階から開始します、胎内にいる時から母親に話しかけられ、生まれてからも話しかけられ、その言葉を通じて母語を学習します。当然、学習を始める前には何を学ぶのか知りません。学ぶ前と学んでいる途中と学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスにおける主体の運命なのです。

 大学の授業にはシラバスがあります。この授業はこれこれこういったことをやりますよ〜という、消費者視点から見ればこれは等価として判断するのでしょう。たとえば投資について学びたかったら投資についての授業を金を払って聞く、というように。これがおかしい。学びたい、と思うのは良く知らないからです。よく知らない分野なのに、それが自分にどの程度影響を与えるのか判断できるはずがない。自分がどこへ行くかを知らない人間が、自分を目的地に連れて行ってくれる人間が誰であるかを選ぶのが今の状況で、それが矛盾しているのです。正確にいえば、学び終わった後の自分は予想もしなかった自分であるはず。そして学び終わった時に初めて自分がなにを学んだのか、その意味を知る。