基本読書

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ためらいの倫理学―戦争・性・物語

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

 これは凄い。内田樹の初の単行本で、最近の著作に比べると文字の選択が難しいのだがやっていることはまったく変わっていない。変わっていないというのはぼくが勝手に考えている内田樹のイメージである。そのイメージとは、みんなが信じているものに対して、嘲笑でもなく、かといって子供の純粋さでもなく、一言『ぼくはそれ、違うと思う』とだけ言ってどこかへ行ってしまう感じである。多くの人が思ってもみなかった視点から物事を見て、それがまったく自慢気でなくそのせいで笑いを誘う感じ。

 その性質は、本書のテーマでもある「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」からも連想できる。めちゃくちゃ吟味するのが、内田樹なのだなーと。まあ吟味するだけ、それ違うと思う、というだけなのも内田樹なのかもしれない。本書を読んで思った一番多く考えた事は、『そりゃ驚きだ! でもだからどうしたっていうんだ?』ということ。驚きを与えはするけれど、その先はない。

 そういえばどこかで読んだ本(難解な本の読み方みたいなタイトルの本)では、開かれた本と閉じられた本があるといっていた。閉じられた本はそれ一冊で完結しており、開かれた本は読者に問題提起をすることによって完結する。それを読み間違えるとひでえことになるぞーという話だ。そう言う意味でいえば、本書は開かれた本なのかもしれない。一般の人にもわかりやすく、問題意識を持たせるまでが内田樹の仕事か。そういや、先生だもんね。

内田樹によるカミュ『異邦人』論がすげえ!

 本書の半分以上は戦争論やフェミニズムについて壮絶に批判しているわけだが、そちらはまあへーと思ったぐらいである。フェミニズムが嫌いで、戦争も嫌いなのでそれらについて語られているものも嫌いだ。嫌いだからといって読むのをやめたわけではないけれど、嫌いだからなのか読んでもよく頭に入ってこない。それよりも面白かったのはカミュ論ですよ、カミュ論。おもに異邦人について、『私たちは人を殺すことができるか?』について語っている、表題作にもなっている『ためらいの倫理学』が凄く面白かったんですね。で、どこがどう面白かったかというと、考えもしなかったことをばんばん言ってくれるからなんですよ。それは別に正しい論である必要はなくって、説得力と驚きさえあればいい。ぼくも異邦人は最近読んだことあるのですが、まるで見当違いのことを考えていたような気がする。

 異邦人のあらすじを簡単に説明すると、『独特のモラルをもったひとりの青年が、ある抜き差しならない状況で人を殺したが、反省することもなく死刑になる話』である。異邦人での問いは『私たちは人を殺すことができるか?』であると先程書きました。この問いに対する異邦人での答えは、『みずから死のリスクを冒す用意のあるものには「人間を殺す権利」がある』というものです。それだけではなく、平等性さえ確保されていれば、暴力は免責されるものであるという条件もあります。つまり殺人は、条件付きではあるけれど許容されうるというのが異邦人での立場であるといえるでしょう。

 それはただ単に内田樹が勝手に生みだ推測ではなく、異邦人の本文中から導き出せる推測でもあります。異邦人では印象的な、アラブ人二人とムルソー、レイモン、マッソンの三人の対決の場面からわかります。最初アラブ人は二人なので、ムルソーは公平性を期すため戦闘要員からはずれます。素手での戦いは、ムルソー側が圧倒しますが次にアラブ人がナイフを抜いて切りつけてきます。その状態になった時にムルソー側は銃を出しますが、平等にするために細かい条件づけをします。1.いきなり撃ってはならない。2.相手がナイフを抜かなかったら撃ってはならない。結局この条件は満たされ、平等性は達成され、相手が襲いかかってきたことによりムルソーは相手を撃ち殺します。

 ここからさらに、『人を殺すこと』についてこまごまとしたことが書かれるのですが、全部書いていたら長すぎるので凄くハショります。カミュの基本的な立場は暴力が起こってしまうことは回避不能であり、だがだからといって暴力を正当化するつもりはないというものです。暴力を正当化するつもりはないといいながら、何故異邦人の中でムルソーは、殺人という暴力をふるってしまったのか? そのためには「反抗」という概念について詳しく説明しないといけないのですが、これもやっぱり長くなる。とても説明しづらいのですが簡単に要約してしまえば、反抗とは革命とは違っていて、抑圧その他の行為について『なんかいやだな』と思う事だと、内田樹は言っています(たぶん)。たとえばムルソーの立場のように、相手が自分に向かって襲いかかってくる、自分はそれを撃ち殺すことが出来て、そうしなければ自分が死んでしまう。そう言った時に相手の顔を見てしまい、その瞬間にどうしようもなく嫌だな、と思って引き金が引けない、そういう状態が反抗なわけです。

 「反抗」とはまさに「汝、殺すなかれ」という「戒律」の言葉をまとって到来するのである。しかしこの「戒律」は神の下した命令でもないし、立法者から由来する命令でもない。その「戒律」いままさに殺されようとしている者の「顔」からまっすぐに発されて、いままさに殺されようとしている「私」を刺し貫くのである。

 まあ誰だって殺されたくないわけですし、顔を見たら悲痛な顔していて、そんなものを見たら殺す気がなくなるよねっていう話でしょうか。こちらを真摯に見つめてきて、殺すなと目で訴えかけてくる相手に対して、あなたは殺すことができるか? と、そう問うているのである。これは別に、だから殺してはならないと言っているわけではなく、ただそういう状況があるよねっていう話だ。

 話しは核心へと進む。何故ムルソーは、殺せたのか? という問いへ。ためらうはずのムルソーは何故相手の顔を見て、殺すなという訴えがあるはずなのに殺しえたのかに対する答えは、ムルソーは殺す瞬間にアラブ人の顔を見ていないのである。『太陽のせい』で。殺人の瞬間、相手の顔を直視することができずに、『ためらい、つまりは反抗』が起こらなかった。だから殺せてしまった。そして、だからこそムルソーは裁判で何故殺してしまったのか? という裁判長の問いに、正直に『太陽のせい』と答えたのである。ムルソーは相手の顔を見たとしても、殺したかもしれないじゃないかという問いに対する答えは「均衡の論理」に支配されている異邦人ではありえないとしている。太陽のせいで顔が見えなかったから反抗が起こらずに相手を殺すことができた。いやー、これがどの程度信頼性がおける論とかは関係なしに、純粋に驚きでした。

 またカミュは、『反抗的人間』の中で殺人についてこう書く。

 殺人は一回だけ触れることのでき、それに触れた後は死ななければならない限界である。やむなく殺人を犯した反抗者が、その殺人行為とおのれを和解させるためには、たった一つの方法しかない。それはおのれ自身の死を受け容れ、それを犠牲に捧げることである。

 均衡の原理を適用するとそうなる。自決を覚悟した人間は人を殺す権利を有するといっているように見えるが、何が言いたいのかよく分からない。言っていることは結構矛盾しており、総括するとこうなるのかもしれない。殺したくないが、殺せる、この矛盾を生きていかなくてはならないのが人生だ、とかそんな感じ? しかし結構関係ない話なんですが、これを読んでいて空の境界を思い出しました。あれの中でも、一人だけ殺せるんだよ、普通はその一人とは自分だけど、誰かを殺してしまったら死ななくちゃいけないんだ、みたいなセリフがあってそこからの連想したわけです。空の境界を読みなおしてみたいなーと思いました(何だこの終わり方)