基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

空の境界第七章殺人考察(後)を見た

 テアトル新宿にて。夜はチケットが全然取れないので朝行ってきました。時間に間に合えば席は余裕かと。さて、空の境界全七章の映画もこれで幕を引き。さすがにずっとおっかけてきたので感慨深いものがあります。そして、さっそく映画を観た感想ですけどえがったです。やっぱり六章、二年間追いかけてきて、その集大成としての七章があるわけで、感激するなと言うほうがおかしい。梶浦由紀のサウンドもばりばりに決まっていて、最高。殺人考察は物語のテーマでもある『なぜ人は人を殺すのか』に一番肉薄していてどう映像で表現するんだろうと思っていたのですが、思いのほかよかったです。女の子走りする式とか、チビ式がかわいすぎるとか、眼鏡外したらコクトーイケメンすぎるだろ死ねよとか、里緒先輩が変態すぎるだろ…とか、こういった驚きはやっぱり映像ならではですね。心配していた今までで最長の上映時間二時間という長丁場も、長さを全く感じさせませんでした。

 『なぜ人は人を殺すのか』という問いと、『なぜ人を殺してはいけないのか』という答え、そして『どうしようもない状況で人を殺してしまったときに、救いがある場合と救いがない場合はどう分けられるのか』この三つにちゃんと答えている点で、空の境界はわりとちゃんとした文学であると思っています。人を殺すという定義を『人がお互いの尊厳と過去を秤にかけてどちらかを消去した場合のみ、殺人となる』としていますので、人が人を殺すことの意味のなかには『自分が罪をおかしたという認識を持つこと』までが含まれている。しかし罪の意識がなくなった場合、もしくは自分を正当化しながら殺人を犯した場合(自分はくるっているのだから人を殺しても仕方がないのだなど)、それは人殺しという枠を超えて、殺戮となる。地震などのような、一種の自然災害になってしまうわけです。人は人を殺した場合その罪の意識を背負わなければならないということで、初めて空の境界で繰り返される『人は一人分の死しか背負えない』という答えにたどりつく。罪の意識さえしっかり持っていれば人は人を殺してもいいのか? とか色々派生しそうですけどまあそんなところですか。

 それとは別に普通と特別の対比もきっちりやっているあたり、かなりよくできた構成だったなと思います。監督が一人じゃなかったせいかごちゃごちゃしている部分もあったかと思いますが、えがった! 空の境界最高! 

中二作品を視るには、中二病の眼がいる

 しかし、本当に終わってしまうんだなーと。シリーズを振り返ってみると、この空の境界、観ているときはスゲー面白いぜ!! と興奮してるんですけど、観終わってしばらくすると、そんなに面白かったかなあー・・・? と疑問に思うんですよね。少し前にテレビで映画空の境界特別番組が配信されていまして、それを見たときも『なんて痛々しいアニメだ…頼むから世間に向かって宣伝なんかしないでくれ…』と絶望にかられたことを覚えてます。

 どうも言葉で説明しようとしたり、説明されたりすると痛さが際立つようです。物語の主人公、式は魔眼の持ち主で、モノの死を視ることができるのだ──! みたいにナレーションで説明されるとアイタタタタタタとなる。実際に映画で見ているとなんてことのない場面でも、抜き出してうつされるとセリフ回しから絵から何から何まで痛いような気がする。これを、中二病作品を視るには中二病の眼がいる症候群と呼びたいと思う。多分映画を見ているときは完全にそういう中二モードに入ってると思うんですよ。だから何にも思わない。いやー面白かった、といって外に出てしばらくしてから考え直すと、凄く痛いような気がしてくる。一つの作品としてみたらそんなことないのに、一部分だけ思い出すとそうなる。長々と書きましたけど別にこの話はどこにもつながりません。俗に言う中二作品の一部分だけ引用してこれはイテェwwwwとか罵倒するのは意味がないなーと思ったぐらいです。