基本読書

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生き延びることができるものは、生き延びよ──「おじさん」的思考、1と2を読んだ

「おじさん」的思考

「おじさん」的思考

期間限定の思想―「おじさん」的思考〈2〉

期間限定の思想―「おじさん」的思考〈2〉

 最近内田樹の本を読み漁っている。最初は「わかりやすく」、そして「面白い」と思いながら読んでいたのだが、途中からどうもそんなことが無いような気がしてきた。なんというか、「わかりやすい」というのは確かにそうなのだが、「わかった」気にさせられてしまうのが内田樹なのだ。「おじさん」的思考では数多くの時事問題が扱われているけれど、どうしてこんなに幅の広い問題を扱えるのかと言ったら、本来ならまったく関係ない問題を自分のフィールドへ持ってきてしまっているからだろう。自分のフィールドとはつまり「レヴィナス」であり「武道」であり「教育」である。結局どの問題もこのどれかに帰結して、この三つもそれぞれに密接に関わり合っている。というかもうこの際、内田樹本を幾つも読むよりかはレヴィナスを読んだ方が早いんじゃないか? という気がする。読んでみよう。

 「わかる」気にさせられてしまう理由の一つとして、適切なポイントで他者の引用が入ることもある。これこれこういう社会的な現象は、つまるところレヴィナスがいう〜〜〜〜ということと同じである、という引用の仕方が非常に多い。どうも自分の場合はここが曲者で、「わかりやすいたとえとして引用されたのだから、簡単にわかるはずだ」と思って引用部分を読む。しかし実際は一部分の抜擢であるうえに、じっくり読むと何を言っているのかさっぱりわからない。ただこの文脈で引用されているのだから、これには説得力があるのだろうと思ってしまうだけである。そしてなんとなく、レヴィナスとかいう偉い人もいっているのだからそうなのだろうと確たる理由もなく信じてしまう。内田樹のわかりやすさは、引用の巧みさと話題を自分に引き付ける力なのではないかと、ぼんやり読みながら考えていた。ここで言いたいのは「わかった」気にさせられてしまうからダメだということではない。内田樹先生の書くことは、本当にわかりやすいのですが、だからといって「わかる」わけではないということが言いたかったのです。「本当はわかっていない」ことを「わかった」と錯覚してしまうことが危険なのです。内田樹の知性に対する考え方もだいたい同じようなものかと。

 「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。
 「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るか」を知っている、というのが「知性」の働きである。

 マッピングのための問いとは「私は何ができるのか?」というような前向きな問いではなく、「私には何ができないのか?」という否定的な問いです。これが全てにおいての基本で、それさえ出来ればこの生きづらい時代に、誰でも眼の前に可能性が開けるのかもしれません。今は乱世です。どういう人間が生き残ることができるのかわからなく、「唯一の正解」がどこにも存在しない時代です。エントリーのタイトルにした「生き延びることができるものは、生き延びよ」という言葉は船が沈没したり、最前線が崩壊したりした時に、最後に指揮官が兵士に告げる言葉だといいます。日本は崩壊した最前線であり、沈没しかかっている船です。これからはどうしたって、個々が自分で自分なりの生存戦略に従って生きて行くしかないんですよな。

 他に特に書きたいこともない…というか書くと恥をかくので何も書きたくないのだが、しかし読んでいて非常に面白いところがあったので、やっぱり書く。面白いところとは、「大学教授と学生の恋愛」に関しての話である。これは簡単にいってしまえば、学生は先生に対して「先生その人」ではなく「先生が持っておらず、先生が欲望している知」を欲望するのであるが、これはエロティックなものにならざるをえないんだよということである。だから教師は学生が自分に示す欲望を、個人的な性的魅力の効果であると考えて「恋に落ちる」なんてのは、学生が自分に対する畏怖の念を自分個人の博学とか知識とか人間力であると考えて「威張り散らす」教師と一緒ですよといっているのだ。これが書かれたのは2002年。この話にオチがあるとするならば内田樹先生はつい先日元教え子と結婚したばかりであるということでしょうか。うらやましい限りです。