基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

「わからない」がわからなかった

 最近橋本治を読むふけっているのですが、驚かされることばかりで非常に面白いです。中でも特に衝撃を受けたのが、「わからない」という方法という本です。これを読んで、自分にありとあらゆるものが「欠けている」という感覚を持つことができたのです。何故突然「欠けている」という感覚を持つことになったかというと、これがまずわからない。そこが橋本治の凄さとしか答えようがないです。

 それまで僕は「本を読む」という行為を、かなり異常なやり方で行っていました。たとえば「羽生善治」という有名な棋士がいますが、彼の本を読んだことがあるにも関わらず、僕は「羽生善治」を「はぶぜんじ」と読んでいたのです。これは友人に声に出して言って間違いを指摘されて初めて気がついたことで、多分指摘されなかったらずっとぜんじと読んでいたでしょう。ちなみに本当はよしはると読みます。

 一見するとただの読み間違いですが、これの恐ろしいところは「羽生善治」を特に何の違和感もなく、ぜんじと断定していることです。だって、普通だったら善治という漢字を「ぜんじ」とは断定しませんよね? 佐藤とかだったら言うまでもなくさとうと読むでしょうが、読み方が何通りもあるような名前は、読めない、わからない、これはなんだ? と思考を停止させて、調べるかもしくはわからないからどう読むかは保留にしておこうとするはずです。だって小学校の国語の時間とかで、文章を読ませられるときに絶対に「えっと〜…」みたいに言い淀んだ経験があると思います。大抵は先生が助け舟を出してくれるのですが、それを僕は読むスピードを落とさないために思考を停止させず、「よくわからないから保留」をすっとばして「これはぜんじだ!」と強制的に決定してしまったのです。

 これの恐ろしいところは漢字の読み間違いだけにあらず。僕は今まで本を読んでいるときにほとんど立ち止まらないで読み続けていたのですが、それは「わからない」という感覚を切り捨てていることに他なりません。本を読みながら、本来だったら「わからない」はずのものを、漢字の読みを強制的に当てはめて読んでしまうように、「自分のわかるもの」に強制的に変換して読んでしまうのが漢字の読み間違いの本当にヤバイ部分だと思います。

 「わからない」ものを全部「自分のわかるもの」に変換して読む行為に、意味はあるのかないのかといったら、意味はありませんよね。読書が自分の世界に入り込んで、自分の世界の情報を補強するためだけの行為になってしまいます。「よくわからないから保留」をしていなかったのが過去の自分です。その世界には「わからない」がなくて「わかる」しかありませんでした。そんな世界はつまらなかったなと、橋本治に気がつかされたと言えます。