- 作者: ブルボン小林
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/09/09
- メディア: 文庫
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モノの見方が変わることがよくある。本を読んでいるときだったり、人にあったときだったり、ぼんやりと何か考え事をしているときだったり、それは割合予期していないときに起こる。本書を読んでいるときもモノの見方・・・ちうか、ゲームの見方がガガッと変わった。僕はどちらかといえばゲームが苦手で、今までにクリア出来たゲームなんて片手で数えられるぐらいしかない。ほとんどのゲームは単純につまらないし、のめりこめないし、なんか遊んでいる感じがしない。ゲームの世界にいて自分が動かしているものがただのポリゴンにしかみえない。非常に冷めた目でゲームをみていたわけである。ゲーム世代なのにもかかわらず、しかも話題になったゲームは割かし買っているにも関わらずそうなのだから始末に負えない。買ってきて、文句をいいながら辞めることを繰り返していたのだが、そんな自分が本書で知ったことは「ゲームは解釈がまだまだ広げられる」ということだ。
考えてみれば、書評や映画評はこの世に溢れかえっているがゲーム評というのはあまりない。ゲーム評はあるところにはあるが、なんだか面白くない。それは多分書評や映画評と同じようなレベルで評されているからではないかと。同じように、アニメ評もあまり納得いっていなくてなんだか面白くない。もっと解釈が広げられるはずなのに、アニメもゲームも。なんだろ、ゲームは物語としての面白さだけで語られるべきではないし、操作性やシステムの良しあしのみで語られるべきではない。もっとこう、感覚的なもので語られるべきではないかと思ったのだ。たとえば本書でブルボン小林は「ぷよぷよ」を、テトリスにはなかった「感触」を見出した点を高く評価している。ほら、ぷよぷよはテトリスと違ってぷにょっとしているじゃない。あれを指摘した人はかつているのだろうか(いるだろうけど)
ゲームはもっと色々な楽しみ方をされてもいいのだ、とそういうことを読んでいて初めて気がついた。たとえばシューティングゲームにはほとんど残機制というものがあるが、あれは実際に考えてみるとおかしな話で、落とされたら復活するのはいいんだが落とされた機体になってた人は死んだの? という話になる。「さっきのに載ってた人は死んだんだな」とシューティングだと納得できるかもしれないがこれがマリオなどになってくると、何でコイツラハシンデモフッカツスルンダロウ? みたいな疑問が出てくる。普通にゲームをやっていたらあまりそんなことを考えないはずだ。「ドラクエの勇者は家宅捜索なんかして、犯罪者みたいだ」ぐらいはみんな考えるかもしれないが、「マリオは一体何人いるんだ?」と考える人は何人いるんだろう? そういう「うがり力」とでもいうのだろうか、それがゲーム評では存分に発揮されていいと思う。