- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 2003/06/11
- メディア: 単行本
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「映画の構造分析」と名付けられた本書には、「ハリウッド映画で学べる現代思想」という副題が付けられています。それがどういうことかというと、この本の目的は従来のように「ラカンやフーコーの理論を使って、映画を分析する」のではなく「映画を分析することによって、フーコーやラカンの難解なる思想を理解する」ことにあります。その分析が正しいかどうかというのはもはやこの際あまり関係はありません。一批評家たる内田樹が、現代思想をわかりやすく伝えるためにハリウッド映画という題材を選んだ、というただそれだけのことです。
当然予想される本書への反論としては、「この映画は全然そんなことを言っていない」というのがまあ一番多そうです。本書で分析されているのは「エイリアン」や「大脱走」などの、映画ファンならだれでも知っているような超有名作であり、見た人はみなひと言ぐらい自分の解釈を持っているでしょう。フロイトの夢理論を適用しまくった「大脱走」など、えええほんとかよそれ…と思わず疑問を持ってしまう解釈のオンパレード。しかしそれを「現代思想の枠に無理やり当てはめる解釈」といって批判してしまうのは少々さびしいのではないかと思います。
映画を作ることは、基本的に一人ではできません。カメラで撮る人間が必要だし、役者も監督もと色々な人間が一つの作品には携わっています。しかしそれを多くの映画批評家たちは見落とし、「監督の意図はこうだ」とか「この物語のテーマはこれだ」とか、もしくは「監督はこう言っていた」として正解を収縮させようとします。「正解」はただ一つであり、「監督」が知っているという前提にたって批評家たちは一つの正解に向かって批評を繰り返すわけですが、内田樹はこれに対して否定的です。何故なら映画に絶対的な「作者」はいないからであって、「作品」の解釈に「正解」は存在しないからです。
これは何も映画批評に限った話ではなく、文芸批評においても同様です。古典的な文芸批評だと「文学作品は究極的、一義的な意味を蔵しており、批評の仕事はそれを探り当てることである」ということ(P40━映画の構造分析)が前提になっていますが、しかし文章を書くということは、書いたことによって一瞬一瞬自分がテクストと混ざり合っていくことです。何かを書いた後の自分は書く前の自分とは別人であり、書き終わった後の自分が書いたものについて解説をするのは「答え」の解説ではなくただの一読者としての「批評」にしかなりえません。
本書での分析は確かに、現代思想を無理やり映画分析の枠に当てはめた感がありますが、それが悪いということはまったくありません。また、そういう「解釈の多様性」を許す作品こそが、本当の名作として長く受け継がれていくのではないでしょうか。解釈し、批評されることも作品が成立する条件の一つとして確かに存在するのです。そしてこの批評も、間違っているとか正しいとかを抜きにして、一つの作品なのです。強度の問題はあるでしょうがね。まあそんな話。