基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉 (文春文庫)

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉 (文春文庫)

 数ヶ月前に一度感想を書いているのですが、文庫落ちしたので買ってきて読みました。わざわざ二度感想を書くのだから、少しは違う内容にしたい…ということで、「オススメ!」タグをつけました。これから過去に読んだ傑作を、再度何か書く形でやっていけたらなと思います。

再読させる本とは何か

 さてさてそんなわけで、一度読んだことのあるものをもう一度買って読むということは、ぼくの場合わりかし珍しいのですが、その衝動はどこから来るかというと「手元に置いておきたい」という欲求です。意外と「手元に置いておきたい」本ってのはないんですよねー。あまり収集癖もないもので、ぽんぽん本を捨てちゃいますし。で、どんな本を「手元に置いておきたいのか」といったら、「持っていることがステータスになる本」か「再読によって気づきが何度でも生まれる本」か「なんだかよくわからないけど、重要そうな本」の三つぐらい。泣き虫弱虫は「再読によって気づきが何度でも生まれる本」です。

 ではなぜ「再読によって気づきが何度でも生まれる」のかといったら、「読み手の変化によって本が変化」するからです。もちろんどんな書籍であっても、読み手の心情やなんやかやが変化すれば内容は変わってしまうので、全部手元に置いておきたい本ということになってしまいますがそうはいかない。内容が変わるといっても、そこにはレベルの違いがあるからです。たとえば「どれぐらい解釈の幅があるか」が、書籍によってレベルの違いとなり現れます。そもそも解釈とは何かと言えば、「行間を読むこと」です。行間とは、文章と文章の間にある、「何も書かれていない空間」です。なぜそんな空間が存在するのかといえば、「本の書き手の視点」が「本の読み手の視点」と一致しないことが多いからです。「書き手はこういっているが、自分にとっては違うゾ」というズレが、本を読んでいれば必ず出てきます。それこそが行間なのです。本の中にはそういう部分が確かに存在して、そこを埋める行為が「解釈」であり「本を読む」ことであり、「行間を埋めること」です。だから「行間のない文章」には「解釈の多様性」がまったく生まれない、たとえばマニュアルとかですね。。

 酒見賢一がこの泣き虫弱虫諸葛孔明にてやっていることは、三国志の「解釈の多様性」への挑戦であるといえます。それは例えば「いったいどれだけ従来の三国志像を崩せるか」のような具体的な目標となって本書に表れています。従来の三国志像を崩すためには、当然「従来のある程度固まったイメージのある作品」という条件が必要で、三国志はそれを完璧に満たしてる。それにこれ程「解釈」しがいのある作品もそうそうないでしょう。「書かれていないこと」ことと書かれているにも関わらずもそれはちょっとどうなのよ、と言いたくなるようなものが共にとても多い。たとえば桃園の誓いとかいうけど、おまえら出会ってそんなに時間経ってないはずなのにそんなすぐ兄弟の契約結んじゃったりしていいのかよ、よくねーよな、といって北方健三は自身の三国志の中では桃園の誓いを排除してしまったりしましたがそれもやはり「解釈」であり「行間を読んだ」わけです。

 酒見賢一は徹底的に行間を読む。そして徹底的に行間を読むことで書かれた本書から、ぼくもまた徹底的に行間を読む。本書に書かれておらず、ぼくが勝手に読んだ行間とは「行間の読み方とは何か」です。「どうやったら酒見賢一のように行間が読めるようになるのか」が、今回の再読のおもなテーマでした。また「行間を読む力」とはそれすなわち「考える力」です。もちろんこれはぼく一人だけの楽しみ方で、他の人には他の人の楽しみ方があります。それを許容できるのが、この作品の凄いところ。だからまあつまり、再読させる本とは「解釈の多様性を秘めている本」ということです。これからも何冊か間をおいて再読していきたいと思います(ここまで前フリ。なんだそりゃ)

めっちゃオススメ

 今まで色々三国志の本を読んできましたけれど、その中でも一番面白かったです。しかしだからといってこれを初三国志としてオススメしていいのかというと、疑問が残る。なぜならこの本の面白さの大部分は「従来の三国志とはかけ離れた三国志のイメージ」を提示することによる、従来の三国志とのズレで笑わせられるところにこそあるからです。ぼくが本書を読んでいて感じる強烈な笑いは「ぎゃっはっはっはww「この」孔明はぶっ飛んでいて面白いなww」というようなある種のツッコミであり、まったく三国志なんて聞いたこともないという人が読んだら「???こ、孔明って人はこんなに変な人だったの??」と勘違いしてしまうのではないかと思うのです。なんて書きましたけど、しかし孔明が希代の名軍師であることぐらいは今や小学生でも(恐らく)知っていることでしょうし、三国志を読んだことがなかったとしても張飛は強くて乱暴者で関羽はヒゲが長くて優しくて強くて劉備は徳の人で曹操は信長みたいなやつぐらいの共通認識はあるでしょう(きっと)だからあまり気にせずに読めばいいかと思います。

 肝心なところをまったく書いていなかったけれど、本書がどのようにして従来の三国志のイメージを一新しにかかったかというと、「三国志を現代の価値観で真面目に測り直す」という感じでしょうか。火計の策とかいうけどようは放火でしょ? や、原典の「三国志」には孔明が機械歩兵を作ったって書いてあるけど、それほんとだったらかなりヤバクネー? みたいなノリです。イヤマジで。原典を参考にするとどう考えても張飛はアル中の快楽殺人者だし、関羽は歴史マニアで頭の堅いオヤジだし劉備は徳徳いいながら走り回るただのキ●ガイだし。現代の価値観でと書いたのは、作中で「もしこれが現代であったら即逮捕であろう」みたいな表現が幾度か出てくるからであるし、そもそも細かいツッコミどころに作者である酒見賢一が、酒見賢一の視点でツッコミを入れるのでどうしてもそのたびにぼくらは現代を意識せざるを得ない。それがまた的確で、面白いんだなこれが。たとえばこんな風に

 英雄豪傑どもの果てしない戦いの背後では、老人幼少が分け隔てなく大虐殺され、女はさらわれ、見境無く繰り返し繰り返し強姦されているのであり、残虐この上なく、『三国志』には踏みにじられた人々の怨瑳の声が満ち満ちて抑圧され秘められているのである。『三国志』を面白がっていいものかどうかいささか悩むところである。
 英雄連中もしょっちゅう二十、三十万の大軍を起こしては火で燃やされたり、河江に沈められたり、得体のしれない罠にはまったりして、虫けらのように殺されてゆく。それを、
「乾坤一擲の大智謀、秘計が当たったわい!」
 と喜んだり、褒めたり、けなしたりし合っているのである。人間の知性は『三国志』では、人殺しに用いられるばかりである。紛争解決にもっとよい知恵を出すのが知性というものだろうと思いたい。敢えて人類とは度し難い生き物だという事を示したいのか。

 うん、面白いですよ。